2009/05/30

天4のスーパー玉出、本日オープン☆

天神橋筋商店街のスーパー玉出が、30日、ついにオープンしました☆

5月10日に書いた工事中の模様は、こちら。

数日前からブルーシートが外されて、突貫工事の模様をリアルタイムで見られるようになったんですが、オープン前のドタバタもすごかったです~。
下の写真、入口の右側の赤くなってるところはエレベータだったんですが、オープンしてみると、エレベータが取っ払われていました(笑)やっぱ、入口の間口を広くとるように、直前で方針転換したみたいです。たぶん、偉いさんの鶴のひと声で変更になったんでしょうな。それだけでもすごい出費かと。。



扇町通りに面したところの外観は、商店街側の入口と比べるとおとなしいもんですが、これもオープンしてみると、大変身します(笑)





29日になって、30日オープンのビラが出ました。じつは、オープン日が二転三転して、わかったのは、前日の29日なのでした(笑)
これは、臨機応変柔軟性に富む、と評価していいんでしょうかね?(笑)





オープン前日。仕入れと陳列が、突貫工事ではじまってます。それにしても、照明が賑やかな店内。





30日、オープン当日。道に幟が立てられてます。





行ってみると、すごい人出です☆ でも、入口上部にある看板は、玉出の他の店のそれよりも、電飾が少し抑えられているような。や、これでもじゅうぶんハデなのはハデですが(笑)
で、当初の計画では、この入口の右端は、エレベータが設置されていたはずで、とりつけ工事が進むなか、直前になって、取っ払われました(笑)





店内。ハデです(笑)ネオンがめちゃうるさい(笑)





玉出がオープニングセールをやると、こんなことになるんですね! 以下、1円セールのオンパレード☆







地元商店街の頭痛のタネ、来店者のチャリです。入口にわずかなスペースを確保してチャリ置き場を用意してますが、こんなもんじゃとても足らんでしょ(笑)10台くらいしか置けません。。。一応、ガードマンは雇ってるみたいですが、物理的なスペースが。。。今どきのスーパーは、チャリ置き場の設置が義務づけられているはずですが、これでいいんでしょうかね?(笑) 溢れたチャリは、どこに置かれるんでしょうね?





扇町通り側もハデにやってます。ちなみに、こちらは、仕入れ専用の出入り口らしく、この通路から外に出ることはできません。でも、入ることはできる、というか、呼び込みやってるし(笑) で、この入口の前の歩道にずらっと並んでいるチャリ。。。ここ、駐輪禁止の札が思いっきり出てるところです(笑)





建築廃材を積んだトラックが横付け。オープンまでの突貫工事のすごさを物語ってますな。





ワンブロック南に、こんなものが! ここは数ヶ月前まで居酒屋の「養老の瀧」だったんですが、スーパー玉出の倉庫になってました。倉庫にも、こんだけの看板を設置するところが、商魂逞しいです☆ でも、ここから数十メートル北の店舗まで、商品を乗せたカートがゴロゴロ押され…、歩行者にはちょっと邪魔。






さてさて、いよいよ北に進出してきたスーパー玉出。果たして、この地で根付くんでしょうかね。
ちなみに、この店の半径10分以内に、業務スーパー2軒、普通のスーパーが5軒、それと市場があります~。

ちなみに営業時間は、5:00-5:00。
普通に、24時間営業です~。







スーパー玉出 天神橋店
北区天神橋4-8-9

2009/05/29

日羅の碑から、明日香~難波~百済を見渡す

僕は日本史が好きで、国内のどっかに行くときも、ガイドブックよりも網野喜彦や司馬遼太郎の本で予習するような感じなのですが、網野史観や司馬史観、折口史観、梅原史観に触れるよりもはるかむかし、山岸涼子の『日出処の天子』を貪るようにして読んで、聖徳太子や天平時代に思いを馳せていたもんです。

その、『日出処の天子』の最初のほうに、聖徳太子、つまり厩戸皇子が、女装してまで会いにいったという日羅という、百済から来た高僧の異様な存在感に、なかなか興奮したものでした。

この漫画では、厩戸皇子は、常人では持ち得ないような怪しい能力を駆使する存在として、周囲から怖れられていた人物として描かれているのですが、その厩戸皇子に向かって、「そこにいる童は人にあらず」と、厩戸皇子の本質を正確に見抜く慧眼を発揮したのが、日羅でした。

『日出処の天子』は厩戸皇子やら蘇我蝦夷が主人公で、日羅なんて脇役中の脇役なのだけれども、それでも、僕の心には、魚の小骨のようにして、なんとなく日羅が
心に引っ掛かっていたのでした。名前の響きも、ちょっと神秘的というか、謎めいているというか、そんなかんじで。
後年、奈良の明日香を訪れた際に、西国巡礼の札所にもなっている橘寺に立ち寄った際、日羅の木像があるのを発見したのでした。




これが一木造りの立派な仏像でして。
奈良時代になると、プラモデルタイプの寄木造りの仏像が出現するんですが、飛鳥時代のそれは一木造りが大半で、原木の持っている捩じれやらクセやらが生かされていて、精緻を極めた寄木造り仏像とはまた違った、荒々しさや神々しさがあって、僕は好きです。

寄木造りは、図面を引き、家内制手工業によって営まれた工房で、仏師が各パーツを分担してつくるので、どうしても洗練されてきます。翻って、一木造りは、一人の仏師が原木と対峙しながら、仏像を仕上げていく。モノヅクリは最終的には素材との対話になりますから、この木はなにになりたがっているのだろうか、と、素材と対話を重ねながら、造形していきます。そこには、作者のナルシズムが入り込む余地がありません。そういう仏像が、僕は好きですな。

この日羅像も、全身の矩形の微妙な捩じれ具合や太腿の膨らみ具合に、原木が持っていただろう荒々しさが生かされていて、グッと来ます☆

さて、
その日羅は、もちろん実在の人物で、達率(だちそち)という、百済では2番目に高い位に就いた高僧です。で、てっきり、仏教、つまり、当時の最先端の文明を伝える伝道師の役割を帯びて日本にやってきた人物だと思っていたのですが、どうやらそれは僕の思い違いだったということが、最近、発覚しました。

日羅は、もともとは肥後の人で、かつては日本の領土だった朝鮮半島の任那を新羅から取り返すために、百済に派遣された人やった、というのが、日本書紀その他に書かれています。

いろいろと異説はあるんですが、当時の情勢についての代表的な説を書いておくと、
西暦400年代のどっか、大和朝廷は朝鮮半島の南の一部を実効支配していて、そこは任那と呼ばれていました。大和朝廷といっても、これは連邦国家の総称みたいなもんですから、実際に統治していたのは、狗邪韓国(くやかんこく)です。

ま、これが、豊臣秀吉の朝鮮出兵や西郷隆盛の征韓論が企てられたときの、そこはかつて日本の領土だったから奪還するんや!という根拠になるんですが、このへんは、民族主義的、政治的な思惑もあって、異論噴出、なにがほんまのところかは、謎といえば謎です。なんせ、かーなりむかしの話しやし、日本書紀も魏志倭人伝も政治的な思惑で書かれている記述の塊ですから、なにをどう信用していいのかは、わからんところです。

とにもかくにも、朝鮮半島の南部には、日本が実効支配していたらしい任那という国があり、でもそこは、当時の一大勢力だった新羅に持っていかれるわけです。同時に、朝鮮半島では、百済と新羅が対立しており、新羅と敵対している日本は、敵の敵は味方の理屈で、百済と仲よくやるようになり、百済と人的・経済的な交流を深めていくわけです。
その交流を通じて、日本に仏教、この場合、仏教というのは、仏教に付随する一切合切を含めた文明そのものを指していて、それこそ、寺院建立のための建築技術から治水、灌漑なんかの土木技術、そしてもちろん文字、陶器、冶金技術、果ては政治手腕としての律令(税制と法体制ですな)なんかも含めての文明としての仏教を、吸収していくわけです。
吸収の方法として、人的交流というか、たくさんの偉いさんが、百済からやってきます。これが渡来人ですな。秦氏一族が土木技術を持ち込んで京都を地ならししたり、鳥氏が木造建築技術を導入して寺院建立や仏像製作を伝えたり…、なんてのが、そうです。
明治のころに学者を大量に雇って文明開化を押し進めた維新政府の、古代版みたいなもんです。
百済サイドにしても、自分たちとおなじ文明、つまりおなじ価値観を有する地域がひろがることは、お付き合いしやすい隣人が増えることと同義なので、もちろん積極的にそういう外交を押し進めます。アメリカが民主主義を世界中にバラまいて、世界中をアメリカの持つ価値観と同質のものにしてしまおうとするのと、おなじことですな。

という時代背景のなかで、日羅は、百済から派遣された、日本に仏教を定着される指導的な役割を帯びた高僧だとばっかり僕は思っていたのですが、どうやら歴史とは、そう単純ではないようで。

日羅は、任那奪回を悲願とする時の権力者が、朝鮮半島情勢の詳細を把握するために百済に送り込んだ人物なのでした。外交的な役割も政治的な役割も帯びていなかったようなので、スパイでも外交官でもなく、ただただ、文明を学びに派遣された、公費による留学生のようなもんです。

で、大変に優れた人物だったので、百済で第2位の達率にまで昇りつめます。

悲願であった任那奪回というか再興のために、日羅の知恵を借りようとなり、当時の帝である敏達帝は日羅を呼び戻そうとするのですが、日羅が優秀だったゆえに、百済でも彼を離したがらず、いろいろと綱引きもあったようです。
あったようですが、最終的には、日羅は、敏達帝の詔を受けて、帰国。これが、583年の出来事です。
そんときに、百済王は、日羅の行動を監視するとともに、日羅を百済へと連れて帰る目的で、数人の百済人を同行させます。
これが、のちに、アダになった。

大和朝廷は、政治問題の一環として、日羅に、任那奪回の知恵を請います。
そこで日羅が進言した答えは、
まず、百済を攻めよ、というものでした。
百済を攻め、要塞を築き、そこを任那奪還の拠点とせよ、と。
じつはこのとき、百済が九州を侵略する計画を持っており、日羅がそれを大和朝廷に漏らした、という話もあります。

これが、同行していた百済人の耳に入り、百済に対する重大な裏切りとして、日羅を暗殺する、と。


『日出処の天子』での日羅は、もちょっとキャラが生々しく造形されているのですが、史書を読みあさるかぎりでは、彼のキャラにまで踏み込んだものは、見つけられませんでした。
人物像については、橘寺の仏像から想像するしかないですな。


さて、
その、日羅の碑が、北区同心の、源八橋西詰めの近くにあります。
日羅が暗殺されたのは、難波の津、つまり大阪港(今の大阪港じゃなくて、海岸線はもっともっと東側にあったはずなので、きっと、大川のあたりなんでしょうな)で、暗殺を嘆いた敏達帝が、その近くに遺体を埋葬するよう、差配したとのことです。




史実では、日羅は、聖徳太子の仏教上の師ということになっています。
明日香の橘寺に日羅の木造があり、埋葬されたのは、天満の大川のほとり。聖徳太子も、大阪に四天王寺を建立し、奈良には法隆寺を建立しています。
古代、大阪と奈良が一直線で結ばれていた証が、ここにはあります。そして、その直線は、日羅を通して、はるか朝鮮半島にまで続いていることを、今の僕たちは、この碑ひとつからでも見渡すことが出来ます。

そんなわけで、ここに日羅の碑があります。碑そのものは、昭和30年に、建てられました。アパホテルの近所なんで、アパホテルの豪華昼食バイキングを食べたあとの腹ごなしにでも、どうぞ。


日羅公之碑
北区同心2-15



2009/05/28

今年のギャル神輿の担ぎ手の募集がはじまってます☆

日本の三大祭のひとつ、天神祭の開催自体は7月だけど、もちろん、準備はすでに着々と進められてますな。

早速、今年のギャルみこしの募集がはじまってます。
天神橋筋の商店街のあっちゃこっちゃにポスターが貼られはじめました。これ見ると、夏が来るんやな~、って気になりますね。やっぱ、風物詩は、季節を感じるためにも、大切ですな。





詳しくは、ギャルみこし公式サイトへ


16歳以上で体力に自信のある健康な女性が応募資格。
7月11日(土)、7月18日(土)、7月23日(木)の3日間に、確実に参加できる人。
募集は70人。
書類審査の一次選考を経て、面接の二次審査で合否が決まります。

応募の締切は6月30日、書類必着です。


ギャルみこしも、1981年にはじまって、気がつけば、今年で28回目です。

30年近くまえ、最初にこの企画を耳にしたときは、ギャルを担ぐんかと一瞬思ったんですが、そんなことはもちろんなくて、ギャルが担ぐ神輿です(笑)
天神祭の神輿の先陣を切って、かーなり鮮やかな彩りを添えてくれてます☆
もう、カメラ小僧、や、小僧といってもほとんどオッサンの領域ですが、とにかく、高そうなカメラもって構えてるというか、くっついて撮影してる人の、多いこと多いこと!

そんな風景も、もう28年目に突入です。

その間、面接選考が隠し芸を披露するような選考に変わっていったり、オーストラリアやタイで神輿を担いだり、タンザニア人が参加したり、国際色も豊かになって、すでに歴史をつくりつつありますな。

4年前からは、それまで設けられていた年齢制限が撤廃されて、親子2代のみこしギャルが誕生し、親子で神輿を担ぐ風景も見られるようになりました☆


今年は、どんなエピソードが生まれますかね?
楽しみです~。

2009/05/27

オットーシューズは本日も閉店セール実施中!



大阪商法、閉店セール!

一昨年、天神橋筋商店街の老舗激安スーパー「ミヤコ屋」さんが、お店を閉めたとき、もちろん数週間前からカウントダウンをはじめて閉店セールをやってはったんですが…、

なんと!最終日の翌日から「閉店セール延長戦!」なるものがはじまりまして、皆、ドテーっとなったわけです。
それでも、ミヤコ屋さんは、惜しまれつつも閉店し、今ではミヤコ屋ビルに生まれ変わり、テナント入れて、キバってはります(笑)

それ以外にも、やはり天神橋筋には、何年も何年も閉店セールを実施して、数年後にようやく閉店した激安服屋さんもありました。

ま、大阪以外では通用せん商法らしいですが、大阪人は、名目はなんであれ、安ければそれでいいんであって、閉店でもなんでもいいってことですね。

いちいちそんなもんに騙されへんのも、大阪人のたくましいところですわ。

でも最近、そういう、えげつないというかお茶目というか、ちっとも閉店しない閉店セールをやってるお店も、とんと見かけなくなりました。

見かけなくなったなあと思っていたら、そうそう、あそこがあったのでした。

オットーシューズ!

オットーシューズ

このお店は、もう、閉店セールが芸みたいになってますな(笑)
大体、何年も何年も何年も閉店セールと言っときながら、楽天に平気で店出してますからね。自前のサイトも持ってはりますからね。リンク、張ったげないけど(笑)
いつになったら閉店するねん!とお客に聞かれて、毎晩閉店してる!と、のたまってますから。

しかも閉店セールだけじゃなくて、なにからアジ看板というか垂れ幕というか、世間に物申したりますねん!みたいなのがときどき出現して、ほとんど怒れるオヤジといった様相を呈してます(笑)

今は、どうやら、格差社会に怒りの矛先を向けてるのが、オヤジさんのトレンドみたいです。。。

ときどき、ここの店のまえを通るたびに、垂れ幕のニューバージョンがお目見えしてないかと気になる僕は、きっと、店側の思うツボにはまってるんやと思います。。。。。

でも、「人は見た目が9割だから」って。身も蓋もないけど、真理を突いていて、一種、清々しささえ感じさせます。


シークレットブーツの元祖はここやということになってるらしいのだけれども、ほんまのところは誰も知りません(笑)

オットーシューズという店名も、きっとね、おっとっと~、の掛け声とか、そんなところから来てるんやと思われます。

ちなみに僕は、ここで靴を買ったことがありません。
というか、ここで靴を買ったという人に会ったこともありません(笑)



オットーシューズ
北区西天満6‐1‐15

2009/05/26

謎の空き地

神山町の交差点から北側、480メートルにわたって、街路になってるんですけど、巨大な中央分離帯らしきものがあって、はっきりいって、空き地です。

気がつけば空き地で、それ以前になにがあったのかはすっかり失念してしまっているんですが、北区で、数少ない遊休地というか空き地というか、塩漬けにされてる土地?(笑)

謎です。

この写真の一番手前のガードレールから、奥に見えているタワー型のビルディングの手前にある交差点まで、延々と、なーんもない、摩訶不思議な空間が、ぽっかりとありますねん。




google mapで航空写真を表示させると、その空白具合がよくわかるかと思います。
写真中央を南北に走ってる白いところが、そうです。
長さ480メートル、幅27メートルですからね。なかなか巨大です。

なーにができるのか、なにかをつくる予定があるんか、さっぱりわからんのですが、わからんままに調べてみますと、どうやら、大阪市の市制改革室というところが作成した資料に、それらしきもんが載ってました。

平成20年度事業再評価対象事業一覧表というものが公開されておりまして、
それによると、
建設局と組んで、街路を造る予定なんですと。

じゃ、今も一応は街路なので、もちょっとオシャレになるとか、空き地も有効利用するとか、そういうかんですかね。

北区中崎1丁目~神山町。
交付金(補助)というのがつけられてまして、該当条件は(3)で(←さっぱりわかりません。笑)、平成6年度に事業採択されていて、完了予定は平成27年度ですと。
でも、計画そのものは、昭和25年から存在してるらしい。。。

えらいこと時間かかるねんなあ、と、思っていたら、

進捗率というのが出てきて、
用地95%、工事18%
と。
これ、用地買収があと5%残ってて、工事は18%しか進んでないということだろうから、立ち退きしないところがわずかに残っていて、工事といえば舗装してガードレールつけただけ、ってことか。

事業費は183.1億ですと。

街路なんで、工事が本格的に動き出したらソッコーやと思うんですが、まだそんな気配は微塵もありません(笑)

キャッチボールどころか、サッカーのフリーキックの練習もバッチリできます☆


まさか、中崎町を紹介する最初のエントリーがこれになるとは!(笑)



本庄西天満線(街路)
北区中崎1丁目~神山町

2009/05/25

歯神社の「歯」は「歯止め」の「歯」

梅田のユニクロはちょくちょく行くのだけれども、その隣に、ひっそりと、祠と鳥居があって、ユニクロに行くたびに気になっていたのでした。

気になるだけで、なにも調べずにいたのですが、今回、重い腰を持ち上げて、調べてみました。というか、いつもは素通りするところを、チャリを停めてまじまじと見てみると、「歯神社」という額が鳥居にかけられていて、歯の神社って!と、あまりのインパクトの強さに、調べてみたくなった次第で。。。

サイトがありました。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/u-shirae/syaden/hagamisan.html

以前紹介した綱敷天神御旅社とおなじく、ここも、綱敷天神の末社だったのですね。
この近辺、だいたいどこも、綱敷天神かお初天神か太融寺の息がかかってるみたいです(笑)

縁起を見てみますと、
もとは農耕の神さまである宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀り、地域農民が信仰してましたところ、現在は「はがみさん」と呼ばれていて、歯の神さまとして信仰されている、と。
宇迦之御魂神は農耕の神さまということなので、きっと、お稲荷さんのルーツと考えて間違いないかと思います。



歯の神さまってなんですか、歯の神さまって?

歯の神さまについて、かーなり真剣に調べてみたのだけれども、はっきりとはわからなくて、わかったのは、どうやら淀川の氾濫が関係しているらしい、と。

淀川の氾濫といえば、明治18年の大洪水が有名ですな。

そもそも、大阪の地は、淀川がとめどなく土砂を運んでくるために、長らく泥地でした。なので、大阪の都市計画といえば、淀川をどう治水するか、と言い換えてもいいほどで。

江戸時代中期の河村瑞賢による淀川水系の治水工事もなかなかの大事業だったみたいですが、にもかかわらず、淀川はたびたび氾濫し、大阪は大洪水に見舞われてきました。
宝永4年(1707年)、享和2年(1802年)、文化4年(1807年)と、江戸時代中期以降だけでも、3回の洪水が記録に残ってますわ。

で、明治18年の大洪水となるのですが、こいつは強烈です。

6月の上旬に雨が降り続いて、淀川が増水、上流各地で堤防が切れる。
6月10日
午前3時に土佐堀川の水かさが3.4メートルに達し、土佐堀川は決壊寸前。

6月24日
いったんは水が引きはじめる。

6月28日
でも、雨が再び降り出して、午後から再び増水。

7月2日
市内の各河川で水が溢れ、中之島では、中流下流域で各家とも軒下15.、6センチまで濁流が迫る。
大阪鎮台工兵隊も出動して、土佐堀川や堂島川の橋の流出を防いだが、水の勢いには勝てず、ほとんどが流れ去る。
天満、中之島をはじめ、難波(浪花)、大江、淀屋、渡辺、肥後、田蓑、筑前、玉江、常安、堂島大橋などで浸水。淀屋橋が流れたときは水死者が出た。北区で浸水を免れたのは、天満宮の周辺だけ。

今と違って、時間がゆっくり流れてますが、といって迅速な処置ができるわけでもないので、恐怖がじわじわと迫ってくるようなかんじがしますね。

7月4日
ようやく減水。
この間、
大阪-京都間の鉄道はすべて不通になり、堂島、北浜市場は浸水のため休業。大阪経済はマヒ状態ですな。
被害総数は、死者1、流失家屋が18戸、全壊家屋が13戸、損壊家屋が185戸、浸水家屋が8,691戸、浸水学校が11舎、救助者は2,491人で、北区は、西区に次いで被害が大きかったそうです。被災者のため、政府米が3,200俵、放出されました。

すごい被害。。。
でも、防疫に努めたので、直後の伝染病の発生は免れたそうです。これは、7月の暑い時期のことを考えると、快挙だと思いますよ。

そもそも、淀川がたびたび氾濫を起こすのは、川の形状に問題があるのでした。

もともとの淀川の本流である大川に集まった水が、天満で、寝屋川、平野川などと合流し、どっと下流に流れ込むため、川幅が狭くて浅い堂島川、土佐堀川では、この水量を支えきれないのが洪水の原因だった。
そのために、江戸時代には河村瑞賢が大川をひろげ、堂島川を改修し、安治川を開削したのだけれども、根本的なものではなかったのでした。

で、明治18年の大洪水のあと、根本的な改修を行なわなければならない!と、猛運動が起こったのでした。

毛馬から西へ細く流れる中津川を中心に、大阪湾まで一直線の新淀川をつくり、これを淀川の本流とします。毛馬から天満、市の中心部を経て大阪湾に注ぐ大川を支流化して、大阪の洪水渦を根本的に絶とうという、世紀の大事業。
この大改修を成し遂げたおかげで、今の淀川の形状、すっと一直線に大阪湾に流れ込む淀川の形状となり、中之島を挟む大川は、淀川の支流となり、おとなしくなったわけですな。

国の事業として行なうように政府に働きかけ、明治31年4月着工、12年の歳月をかけて、明治43年に完成したとのことです。
延長15キロメートルで、開削のための買収地は1415ヘクタールに及び、総工費1900万円のうち国庫負担は713万円。残りを、大阪、京都、滋賀の3府県で負担しました。
大川の水量を調節するために毛馬に洗堰が造られ、こちらは明治35年着工、明治43年に完成しました。これまた8年越しの大事業ですな。

この淀川改修に力を注いだ人は多いのですが、なかでも府会議員の大橋房太郎の功績は抜群で、永年、熱心な運動を続け、この計画案が国会を通過するときに傍聴していた彼は、思わず、淀川万歳!と叫び、守衛に連れ出されるというエピソードもあり、地元の人から、治水翁と呼ばれたということです。

これで淀川はおとなしくなったといいますから、無駄なダムばっかり造ったり無駄な治水工事ばっかりやってる今の国交省に聞かせてやりたいような、意義も意味もある大事業ですわ。


で、これが淀川の氾濫なのですが、この、明治18年の大洪水のとき、被害が、このあたりでは「歯止め」されたらしいのですよ。なので、それ以来、地域の人たちが、この神社を「はがみさん」として崇拝するようになったんだとか。
なので、口のなかに生えてる「歯」じゃなくて、「歯止め」の「歯」!


それが、どうしたわけか、今は、口のなかに生えてる「歯」の神さまになっちゃってます(笑)

これも、つらつらと調べてみると、どうやら、
淀川の決壊がなくなり、そのことも忘れられ、いつのまにか、「歯止め」が「歯の痛み止め」に転化し、いつのまにやら歯の神社になったらしいのですよ。なんちゅー転化(笑)






撫で石もあります。これは、きっと「歯」なんでしょうね。撫でとけば、虫歯にならずにすむのかな。





今や、歯のお守りまで販売されてるらしいです(笑)


綱敷天神の末社になったのは明治の初期のころのことで、地元の人たちが、ちゃんとした神社としてお祀りしようと、綱敷天神へ依頼し、結果、綱敷天神の境内飛び地末社としてお祀りされるようになったのでした。

平成12年(2000年)、放火の難に遭い、社殿の前部が全焼したのですが、社殿復興を望む声が多く、多くの浄財が集まり、翌年の平成13年(2001年)には、見事、復興と相成りました、とさ。

復興が素早いです。
それだけ浄財が早くにたくさん集まったということなのでしょうが、ということは、かなり愛されている神社ということになりますな。

ちょっと離れてみると、祠から炎が噴出しているかのような勢いで、イチョウの木が茂っています。もちろん、注連縄をしたご神木です。







歯神社
北区角田町2-8

2009/05/23

天神橋筋商店街の買い食い文化の代表、中村屋のコロッケ

天神橋筋をチャリで走ってる途中、小腹が空いたので、中村屋でコロッケを買い食い。商店街を、南森町の交差点から南に下ったすぐのところにあります。

珍しく、行列が途切れていたので、並ぶことなく購入できました。



ここのコロッケは、ジャガイモの甘みがしっかりとあって、シンプルでとっても美味しいですな。むかしながらの気取りのないところが、好きですねん。
小判型で黄金色に輝くコロッケで、ひと口かじると、カリッとした衣と、なかのジャガイモのふんわりした噛み応えとともに、甘い味わいと香りが漂います。

普通、コロッケというと、肉屋さんの店頭で揚げてるのが不思議と美味かったりするのですが、中村屋さんは、肉屋さんじゃなくて、揚げもん専門店です。

なので、コロッケ以外にも、ビフカツやらミンチカツやらフランクフルトやらシューマイやらとメニューは豊富なのですが、僕は、コロッケ以外食べたことがありませんわ(笑)

お使いものに使うこともあるし、10個20個単位で買っていく人もガンガンいてはります。

去年の小麦粉値上がり騒動で1個70円になったけれども、それまでは1個60円でしたからね。どっちにしても、安いです。





コロッケを揚げるラードは1日に1斗缶1本、15kg。コロッケは1日3,000個売ったはるそうです。揚げるまえの生のコロッケを買ってく人もいてますな。
70円のコロッケが3,000個なので、コロッケだけで日商21万円。それ以外にもメニューがあるから…、まあ、他人の財布の中身を勘定するのも下品なんで、これくらいにしときましょ(笑)





社長の柚木三四郎さんは80歳の大台に乗ってはりますが、まだ現役で、今日も店頭に立ってコロッケを揚げてはります。
ジャガイモのほか、合挽、タマネギ。調味料の割合は極秘で教えてくれませんが(←あたりまえか。笑)、子供が美味いと言ってくれているうちは大丈夫や!と、お世辞や気遣いのない子供の舌を、おっちゃんは信用してはります。もう、半世紀以上、ここでコロッケを揚げてはります。


この界隈は、お好み焼きやらタコ焼きやら、買い食いできるところがぎょーさんあって、独特の匂いを放ってます。
それにしても、大阪は、キャベツ焼きやら一銭焼きやらタコ焼きやら、買い食い文化が発達してますな。

こんなふうに、1個だけ買って買い食いする人用に、ちゃんとそれ仕様の紙袋が用意されてます(笑)






中村屋
9:00-18:30 日祝休。
北区天神橋2-3-1

2009/05/22

鐘をチン!と鳴らして太鼓をドン!と叩くから、チンドン

今日、天神橋筋の商店街、5丁目あたりを歩いていたら、チンドン集団に出くわしたのでした。
ここ数年、お店の宣伝手段としてチンドンが見直されているのは知っていたのですが、見かけることも多くなってきたし、そのことを実感するようにもなりました。

どこのチンドン? と、聞いてみたら、やっぱり、華乃家ケイさんのところでした。

ケイさんは、大阪のチンドン屋の親方みたいな人でして、今、大阪でチンドンが復活しつつあるのは、これはもう、ひとえにケイさんが頑張ってらっしゃるから。

飲み屋もやってはりましてね。むかしはそこでケイさんの昭和懐メロをカラオケでよく聴いたもんです。今はお店をリニューアルしはって、カラオケは撤去してライブ中心のお店になってます。
サイトもありますです。

チンドンは、原始的な広告手段でして、お店の新装なんかを宣伝するときに、お願いしたりします。
いっとき完全に廃れましたけれども、この10年ほどで復活しまして、その立役者がケイさん。

路上練り歩きで、全編ライブなんで、若いミュージシャンが度胸付けのために、チンドンのバイトすることも増えてきました。

そのむかし、大阪は千日前に「飴勝」という飴売りがいてましてな、そこが、不振の寄せ小屋に頼まれて、口上のおもしろさでお客を惹きつけたんが、ちんどんのはじまり。
鐘をチン!と鳴らして太鼓をドン!と叩くから、チンドンです。

音楽として、表現形態としてのチンドンの魅力は、異形にあるんだと思います。その圧倒的な非日常性や祝祭の香りが、とても素敵です。素敵のみならず、音楽の原点を思い出させてくれるものでもあります。
結婚式や祭に楽団を呼ぶっていうのは、非日常性や祝祭の香りを求めるからでしょ。音楽の、実生活での役割や実効的な要素って、そういうもんです。それを色濃く残しているから、チンドンには魅力があるんですよね。

それと、通信としての役割。

チンドンはそもそもが広告の媒体として成り立ってますから、そこには某かの情報が含まれているわけです。どこそこで歳末大売り出しやってます~!とかね。

音楽には、そうした通信の役割を担っているものがありましてね。
大むかし、ブルーズがマーチング・バンド形態をとっていたころ、そうやって街中を練り歩いて、「○○の家のオジイが亡くなった~」とかニュースを触れてまわってたんですよ。トーキング・ブルーズという言葉は、そっから来てます。

沖縄民謡も、そんなかんじですな。

演歌もね、大正時代に成立した壮士演歌は、モロにそれですわ。
関東大震災があって、○○地区は全滅~、とか、それこそテレビが伝えるニュースを、壮士演歌の歌い手さんが、触れてまわってました。
壮士演歌というのは、もともとは、政治活動や大衆運動をする人たちが、演説するのに節をつけるようになって、そこにバイオリンの伴奏が入るようになって出来たもんです。
だから、演歌というのは、元来は、「演説する歌」というほどの意味で、今のいわゆる演歌は、もともとは艶歌と呼ばれてました。
ま、これ以上話をすると、とめどなく横道に逸れていきそうですが、そういう、通信としての役割を担った音楽はたくさんあって、チンドンもその系譜にある、と。

横道に逸れていくのを承知で話を続けると、チンドン繋がりで、今日は、ソルウフラワーのチンドン別働隊、ソウルフラワー・モノノケ・サミットを聞きながら仕事をしてました。『竹田の子守唄』が入ってるアルバム。

『竹田の子守唄』は、1960年代の終わりに、赤い鳥というフォーク・グループがヒットさせた美しい歌です。しかし、奇妙なことに、歌の出身が被差別部落であるがゆえに、また歌にそのような内容が織り込められているがゆえに、放送などのメディアでは疎外されてきたという歴史を持っています。

70年代初頭、『竹田の子守唄』、はギターを抱えた青年たちがよく取り上げた歌でした。と同時に、『イムジン河』や『チューリップのアップリケ』などとおなじように、公然とうたってはいけない歌だという風評も、ありました。
全国的にヒットした歌が表舞台では消え、しかし広く根強く一般の人たちは覚えている。『竹田の子守唄』は、そのような、一種独特のシコリを抱えながら現在にまで至っています。

いわゆる、放送禁止歌ですね。
放送禁止歌について、少し書いてみます。

ソウルフラワー・モノノケ・サミットが歌っている『復興節』がそうです。
『復興節』は、もともとが関東大震災のときにつくられた歌です。作詞は、演歌師として有名な添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)の息子の添田さつき。メロディは中国の『沙窓』という曲をもじったものです。家なんか焼けちまっても、オレたち江戸っ子の気持ちは塞いじゃいないぜ!という、なかなか勇ましくて感動的な歌ですわ。
これを、ソウルフラワー・モノノケ・サミットが、阪神大震災の直後に蘇らせました。
添田さつきのオリジナルから、リーダーの中川クンがつくった阪神淡路復興へのメッセージへと歌い繋がれるのが、新しい『復興節』の素敵なところです。
この曲が入ったCDは、今、リスペクト・レコードという独立系のレコード会社から出ています。しかし、本来、この歌は、大手のレコード会社から出る予定でした。
中川クンによると、はっきりとレコード会社から言われたわけではないが、やめてくれ、らしきお声がかかって、結局出すことが出来なかったらしい、とのこと。
「東京の永田にゃ金がある、神戸の長田にゃ唄がある~♪」という部分が問題らしいですね。それと、「ナガタ ちんどん エーゾエーゾ」、このあたりもダメらしいのです。
震災でも一番に深刻な被害を受けた地域のひとつである長田には、被差別部落があったり、たくさんの在日コリアンが住んでます。そういう地域が歌い込まれている歌は、平たくいえば、どんな抗議を受けるかわからないから発売したくない、というのがレコード会社の本音ですね。
歌のラストには、「阪神復興 エーゾエーゾ 淡路復興 エーゾエーゾ 日本解散 エーゾエーゾ」とあります。
僕には、まったくそのとおりの立派な歌だと思えるのですが、これもマズい部分に触れているらしいです。
ただ、どこがどのように悪いのかは、はっきりと指摘さることはない。
そして結果として、歌を評価してくれた小さなレコード会社からCDが出ました。この歌が入ったアルバムは、思いのほか、よく売れましたね。評価も高く、あたりまえのことですが、抗議など一切来てないとのこと。

この、『復興節』のゴタゴタは、『竹田の子守唄』の背景とも密接につながっています。
『竹田の子守唄』は、かつて日本三大民謡のひとつとまでいわれた歌です。それが、次第に放送では流れなくなった。やめておいたほうがいいよという状態になっていきました。
歌の出身地が被差別部落であったからです。
言論・表現の規制というのは、初めから目に見えるかたちで、暴力的に、やめろ!などとはなりません。もっと巧妙ですよ。
この歌は市場に出さないほうがいいみたいだとか、歌わないほうがいいみたいだとか、本心を明らかにせずに遠まわしにゆっくりと締めあげていく。歌は徐々に隅のほうにおいやられていく。その典型が、『復興節』であったり、『竹田の子守唄』であったりします。

さらに、放送禁止扱いを受けた歌をもう少し。
今ではエア・プレイ出来るようになってきましたが、『ヨイトマケの唄』がそうです。
美輪明宏、当時は丸山明宏と名乗ってましたが、その美輪明宏が1960年代に歌っていた歌です。胸に迫る、すごい歌です。
ヨイトマケというのは、建築現場で地ならしをするための重労働、あるいはその人、掛け声をいい、多くは女性が従事する仕事、のことです。
肉体労働を厭うことのなかったお母さんの歌ですね。
ヨイトマケのお母さんが自分を育ててくれた、自分が今あるのはヨイトマケをやってくれたお母さんのおかげだという素晴らしい歌なんですが、そういう職種の人たちを歌っているからダメだと、放送ではかからなくなりました。
僕には、それがなぜダメなのかまったく理解出来ないのですが、しかし、自主規制というか、組織として、やめておいたほうがいいようだ、という、暗黙の規約にひっかかった代表的な曲です。
「父ちゃんのためなら、エンヤコーラ、母ちゃんのためなら、エンヤコーラ~♪」ではじまるこの歌を、40代より上の方であれば、一度は聴かれたことがあるかと思います。美輪明宏はシャンソンの人ですね。シャンソンは、日本では、おフランス趣味みたいに成金を競いあうような音楽だと思われがちですが、本来は、大衆の苦しみや笑いをストレートに描き出す音楽です。美輪明宏はホンモノのシャンソン歌手なので、『ヨイトマケの唄』が書けて、今でも歌っている、というわけです。

『ヨイトマケの唄』では、土方、という言葉が問題になるらしいんですね。
でも、この歌は、土方を卑下しているのではない。誇らしいものとして描いているんですね。額に汗して働く土方の姿は、どこも悪くないはずです。でも、土方とは汚らしい呼びかただとか、働いている人から抗議が来るんではないかという身勝手な思惑が、じゃあやめといたほうがいいな、という判断につながるらしい。『復興節』や『竹田の子守唄』とおなじですね。
『ヨイトマケの唄』というのは、日本を代表する60年代の大名曲だと思うのですが、これも放送という舞台から消されていく歌となりました。最近、ようやく放送でもかかるようになりつつありますが。

60年代は、政治の季節でもありました。
フォーク・ミュージックがその代表的ですが、大衆のための音楽を、ときに政治的に、前向きに意識的に歌っていこうという時代でした。
体制側と、学生たちなり活動家なりが、厳しく対立しました。後者の立場にあった多くのシンガーたちは、自分たちには、それまでの規制や常識を取り壊して歌うべきだ!と、主張しはじめます。当然のように体制側との衝突が起きます。60年代に、いわゆる放送禁止歌がずいぶんと現れたのは、こういう時代背景も無視するわけにはいきません。

美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の少しあとに、岡林信康の作品である『手紙』と『チューリップのアップリケ』も放送禁止になりました。 
どちらも、ある程度の年代の方であったらご存知だと思いますけが、部落差別をテーマとした歌です。
『手紙』は、深い仲となった「みつるさん」と「私」が結婚の約束をし、「みつるさん」はおじいさんから店を譲られることになります。でも、妻となる「私」が部落の娘であったことがわかり、「みつるさん」は店を継ぐことが出来なくなった。だから「私」は、身を引きます。
という歌。
岡林信康というミュージシャンは、デビュー当時から、わかりやすいメロディと歌詞で歌をつくるのが、じつに上手な人でした。団結歌『友よ』などは、その代表例です。
しんみりと歌われる『手紙』にも、彼の個性がよく出ていると思います。
『手紙』の歌詞は、部落の女性が差別と直面し、身を引いてしまう歌です。この点については、解放運動を進める側から批判された歌でもありました。歌は、歌詞の内容を追うだけでは理解出来ないはずなのですが、それよりも先に、歴史的に意義ある歌にちゃんとスポットライトが当たるようにしてから、批判なり評価なりをすべきでしょう。部落の結婚問題にしても未だに解決しているとは言いがたいので、『手紙』の文面は、今も生きているはずです。

もうひとつだけ。
『涙の王将』という、語りものがあります。
河内音頭の五月家一若という、今、一番上手い音頭取りのひとりですが、その一若が1997年に発表した音曲です。
『涙の王将』は、将棋の天才と言われた坂田三吉をテーマにしています。
通天閣の下の貧しい長屋で育って、無学で、将棋しか頭にない男。かつて北條秀司という高名な劇作家が、『王将』という物語のなかで、坂田三吉をこのように描きました。北條秀司の『王将』は、新国劇の舞台にはじまり、同名の映画シリーズになり、村田英雄も歌にし、これらのことごとくが大当たりとなりました。一若の『涙の王将』は、こういった一連の「王将もの」の最新作です。
しかし、この、『涙の王将』は、これまでに知られてきた「王将もの」とは、ずいぶんと違います。生まれからして違う。なにしろ、堺なので。

 坂田三吉 生まれた家は傾く軒の屋根瓦
 四畳一間の板敷に子共6人枕を並べ
 眠る夜さ夜さ母親は
 草履おもての手内職
 喰わんがための夜なべする

坂田三吉は、1870年、堺の、かつて舳松と呼ばれていた村に生まれます。
将棋が好きで、近所の賭け将棋で負け知らずの存在になって、それだけに留まらず棋界へ乗り込み、自力で天才棋士という栄誉を勝ち取った人物です。
『涙の王将』のなかの坂田三吉は、学校へはほとんど行けなかったかもしれないが、苦悩しながらも将棋だけで人の道を切り開いた人物であると語られます。
北條秀司が描いた新国劇の『坂田三吉』も素晴らしいのですが、もはや時代が違います。史実を改めて調査し直し、実像を捻じ曲げないで語られる新しい物語、その典型的な一例が、『涙の王将』です。

河内音頭では、「王将もの」は、かつてから語られてきました。
鉄砲光三郎という、昭和30年代に大変な人気だった音頭取りも『王将物語』をやってます。
鉄砲さんの名唱でもある『王将物語』は、おそらく1960年代初頭の録音だと思うのですが、当時の全国区的な人気者としては、ある意味で画期的な内容を盛り込んでいます。
坂田三吉は、宿敵であり一生の友でもある関東の関根金次郎が日本一となった祝いの席で、彼は草履の鼻緒を贈るのです。自分で編んできた鼻緒を、おめでとうございます!と、手わたす。鉄砲光三郎の声も、このシーンでは特に燃え上がっています。
坂田三吉は、堺の被差別部落の出身です。それを暗示するのが鼻緒なのです。草履おもてなどの仕事の多くは、部落の人たちが担ったものでした。
部落、といった言葉は使ってはいないものの、わかる人にはわかる、わかってもらいたいというメッセージが、鉄砲光三郎の熱唱に出ているのです。
ヒトはカネじゃない、心だ、と考える坂田三吉が、自分が出来うるかぎりの心づくしを畏友である関根金次郎へ贈ろうとしたとき、そこには彼のこれまでの人生が映し出されます。もちろん部落民であることも。
『王将物語』を書き下ろした鉄砲光三郎は、坂田三吉を単なる将棋の上手な男ではなく、差別をも乗り越えて将棋に生きようとした男として描こうとしています。だからこそ、鼻緒が必要だった。

しかし、『ヨイトマケの唄』が土方をテーマとしているというだけで放送されないのが、日本です。『王将物語』を録音した60年代初め頃のことを考えると、発売禁止、放送禁止のギリギリ手前を鉄砲光三郎は狙ったのだろうなと思います。
五月家一若の『涙の王将』は、そういった事実を踏まえながら、物語を編みなおしているわけです。
『涙の王将』には、故郷へ帰ってきた老境の主人公に向かって、幼なじみが、あなたは私たちの星である、輝き続けてほしい、そして一緒に闘おうではないか、と、挫けそうになっている坂田三吉に勇気を与えるシーンも出てきます。
河内音頭は、河内家菊水丸が今もやっているように、もともとは新聞詠み(しんもんよみ)とも呼ばれていました。つまり新聞でありジャーナリスティックな批判精神を備えた音曲です。だから、歴史的にいろいろなメッセージを盛り込んできたという特色があります。


話を、竹田の子守唄に戻します。
『竹田の子守唄』は、非常にヒットしながら、ヒットしたのちにラジオ、テレビでかからなくなったという、不思議な名曲です。
赤い鳥が歌う『竹田の子守唄』は、こんな歌詞です

 守りもいやがる 盆から先にゃ
 雪もちらつくし 子も泣くし

 盆がきたとて なに嬉しかろ
 帷子はなし 帯はなし

 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りも一日 やせるやら

 はよも行きたや この在所こえて
 むこうに見えるは 親の家

京都に、竹田という地区があります。その竹田のなかに被差別部落があります。
『竹田の子守唄』は、そこに生まれた子守唄です。
正しくは、守り子唄ですね。子守りをする子どもが赤ちゃんを抱きながら、あるいは背負いながら歌っていた歌。これが、いわゆる原曲です。
竹田の守り子唄が、村を出ることになったのは、次のようなことがきっかけでした。
関西を中心に活躍されているクラシックの作曲家で尾上和彦(当時は、多泉和人)が、青年時代、うたごえ運動が盛んだった60年代に、竹田地区の隣保館へ合唱団を連れ出かけました。そこで知り合ったのが地域の「はだしの子グループ」という一団で、尾上和彦は彼らと一緒に地域の歌をつくろうということになりました。
彼はこの交流のなかから、竹田に伝わる古い歌をよく知っている女性と知り合いになります。彼女は「はだしの子グループ」のメンバーのお母さんでした。
彼女はたくさんの歌を尾上和彦に教え、そのなかのひとつが、『竹田の子守唄』だったのです。
尾上和彦はすぐにテープを家に持ち帰って、一晩で楽譜に移し変えました。
当時の尾上和彦は、『橋のない川』という東京芸術座の舞台の音楽の依頼を受けており、すぐに『竹田の子守唄』を舞台に上げます。舞台のための音楽なので、メロディだけ。これが、この歌が村を出た第一歩です。
そしてその後、尾上和彦は、件のお母さんにもうたごえ運動のサークルに入ってもらい、歌ってもらいました。
これを聴いたフォーク・シンガーの大塚孝彦が高田恭子と一緒に歌いはじめます。さらに、この2人の歌を聴いた赤い鳥のメンバーが、素晴らしい歌だからと、自分たちのレパートリーにも加えました。
そして、赤い鳥の『竹田の子守唄』が入ったシングル盤は1969年に出て、大ヒットになったわけです。

『竹田の子守唄』は、ヒットするにつれて、歌のルーツがそれなりに知られるようにもなっていきました。
たとえば、在所、という言葉が出てきます。在所とは、京都地方では被差別部落を指します。
『竹田の子守唄』は、『復興節』や『ヨイトマケの唄』とおなじように、歌の出身が京都の被差別部落の歌らしいぞというところから、テレビ・ラジオでは流さないほうがいいみたいだと、そういうような風潮になっていきました。人間を貶めるような歌ならいざ知らず、『竹田の子守唄』は、差別を告発する歌でもあるのにもかかわらず。

ところで、『竹田の子守唄』には、もうひとつあります。
いわゆる原曲のひとつなのですが、これは、かつて件のお母さんが尾上和彦のために披露した歌とは、違うものです。
明治から大正、昭和の初めにかけて、守り子に出された少女は、竹田にかぎらずたくさんいました。彼女たちは、それぞれが『~の子守唄』の作者だったわけです。
そんな、生き証人のひとりの肉声を録音したものが、存在していたのですね。
その曲は、赤い鳥の『竹田の子守唄』とはずいぶん違います。
歌詞は、こんなのです。

 こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
 泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りは一日 やせるやら
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 来いや来いやと 小間物売りに
 来たら見もする 買いもする
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか
 寺の坊んさん 根性が悪い
 守り子いなして 門しめる
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 久世の大根飯 吉祥の菜飯
 またも竹田のもん葉飯
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 盆がきたぁかて 正月がきぃたて
 なんぎな親もちゃ うれしない
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

特に、赤い鳥の歌には出てこない「どうしたいこーりゃ、きーこえたーか」というフレーズは、なかなか説得力溢れる文句です。彼女たちは赤ん坊を背負ってますから、このくだりは、赤子の顔でも見ながら、私のメッセージが聞こえたか?というようにも受け取れるし、あるいは、当て歌というのか、守り子をさせる主に向かって、ツラ憎い!私をこんなふうにこの寒空で!と、訴えているようにも聞こえます。

これが竹田に伝わる元歌です。
かつての守り子唄なり、その周辺の歌というのはずいぶんリアリティのある歌が多いです。そして、悲しいことも、楽しいことも、怒っていることも、即興的にどんどん歌のなかへ盛り込んでいきました。
現在のような、歌といえばCDとかテレビの音楽番組、あるいはカラオケのように、メディアが発信している情報を享受するのが大半という生活と、かつての生活の現場とは、おなじ歌といっても、まるで違うのです。
「寺の坊んさん、根性が悪い、守り子いなして、門しめる~♪」という文句が出てきますが、これもリアリティのある内容です。
この歌の主であるオバァは、
「子ども、背中で泣くやろ、泣いたらやっぱしぬくいとこへ連れていて、ほんでお寺のとこへ連れていて、手をこうやってゆすくって寝やそ思てお寺のかどへ遊びに行くね。そしたら、お寺のぼんさんが怒ってお寺の門閉めてしまうね。それを歌にしたんや」
と。
机の上で想像で書いた歌ではなくて、本当に現実として自らが体験したものを少女が歌にしているわけですね。若くちっちゃい女の子がこれをつくっているんです。こんな歌をつくり、歌ったのが、明治、大正の若い小さな子どもたちだったということです。

そういうふうにイメージを膨らませてみると、『竹田の子守唄』は、一見、寂しい歌のようでいて、ずいぶん違う景色が見えてきます。
たしかに、赤い鳥の『竹田の子守唄』にしても、風景は寒々としています。でもそれを歌うという行為は、凍えてしまいたい、死にたいと訴えることと、おなじではないですね。
寒空に向かって声を出すことで、身体にエネルギーを復活させる、あるいは、笑ってしまうやん!みたいな皮肉めいた力、密かに、バカヤロウ!と叫ぶエネルギー、そういうようなものも裏に秘めているからこそ、歌となります。
オレは自殺したい!といった曲を歌うロック・バンドがたまにいます。これを言葉どおりに捉えることはナンセンスなんです。歌を歌うという行為は、オレは生きたい!という感情の発露でしかないですから。
こんな状況を打ち破ってオレは生きたい、私は生を求めている、という心の叫びが、歌の原点ですから。




などと、たまたま天神橋筋の商店街でチンドンと遭遇したばっかりに、こんなところにまで考えを巡らせてしまいました(笑) 最後までご覧いただいた方、ありがとさん☆

そして、チンドンの写真は…、そのとき、たまたまデジカメを持ってなかったので、ないのでした。あしからず~。

2009/05/21

裁判員制度がスタートするので大阪地方裁判所の歴史を調べてみたという安易なエントリー

本日、5月21日から裁判員制度がはじまりますな。

三権分立を謳っているくせに、政治や立法と違って司法には市民が介入するシステムがほぼなかったですから(最高裁判事の信任投票権くらいか…)、これで、形式上は三権すべてに市民が介入することになったわけです。

なにも、司法に市民感覚の常識を反映させる!なんてことが、そもそもの目的じゃないですから。

ただ、僕は死刑制度に反対する立場をとっている人間なので、裁判員候補者に選ばれて裁判官と面接と相成った場合、最初から死刑判決をオミットすることをきっと伝えると思うんだけれども、それでも裁判員の資格なんてあるのだろうか?

大阪は事件が多いので、裁判員・補充裁判員に選ばれる確率もダントツに高くて、2893人に1人の確率ですと。全国平均が4911人に1人の確率で、一番確率が低いのが秋田県で11,862人に1人。
選挙における1票の格差よりも全然すごい開きなんですけど…。

裁判員制度もあれやこれやと議論されてますが、どれもこれも、裁くほうの視点で語っていることが多いですな。
人の一生を左右するような判決に自分がかかわりたくない、
守秘義務のせいで、死ぬまで胸のうちに抱え込むのはつらい、
被告に逆恨みされたらどうしよう…、

ま、いろいろありますが、僕としては、
自分が被告になったとして、法廷に連れ出されたときに、こいつにだけは裁かれたくない!っていうような知人が裁判員としてそこに座っていたらどーするんだ?って、ことを、なぜか考えます。
裁くほうの視点じゃなくて、なぜか、裁かれるほうの視点(笑)

ま、それはともかくとして、せっかく裁判員制度がスタートしたのだし、北区には大阪地方裁判所もあることだし、ちょっくら、歴史を調べてみました。


明治5年 太政官通達で全国主要府県に裁判所が設けられ、大阪は明治6年に中之島1丁目に開庁。ここは、現在の大阪市役所のある地ですな。

明治8年 現在の高裁にあたる「上等裁判所」が設けられる。大阪上等裁判所は、近畿、中国、北陸の2府22県を直轄。西道頓堀に開庁。

明治22年 明治憲法の発布とともに裁判所構成法が公布され、大阪控訴院、大阪地方裁判所、大阪区裁判所と改名され、明治23年、赤松町に赤煉瓦の庁舎が建設され、そこに3裁判所が移転。

明治29年 火事で焼失。

明治42年 火事で焼失。

大正5年 煉瓦造3階建ての二代目の裁判所合同庁舎が竣工。

昭和22年 新憲法発布に基づき裁判所法が公布。控訴院は高等裁判所に、区裁判所は簡易裁判所に改称され、昭和24年、新たに家庭裁判所を設置。

昭和49年3月 西天満の現在の地に三代目の庁舎を建設。11階建て、22,500平方メートル。大阪高等・地方・簡易裁判所合同庁舎となる。

明治42年の、いわゆる、北の大火で裁判所が焼けたのは知っていたのですが、そのまえの明治29年にも火事で焼失していたとは、なかなかの驚きです。
13年のあいだに2回も焼失って…。

今の庁舎は昭和49年にできたってことですが、なかなか威厳があります。


聳え立ってる感がすごくてインパクト大なんですけど、これでも今となっては手狭なんやそうです。どんだけ事件が多いねん大阪!ってかんじですが(笑)
そりゃ、裁判員に選ばれる確率が日本一高いのんも、この庁舎を見ていたら、さもありなんという気がしてきます(笑)


裁判所絡みの話で思い出すのは、江戸時代の大阪には東町奉行所と西町奉行所があって(東京は金さんでおなじみの北町、南町なのに、大阪は西町と東町)、江戸では大岡裁きが有名なのだけれども、大阪にもそれに似たもので、上方落語のなかに、「佐々木裁き」というのがありますな。頓知話というか、ダジャレのオンパレードですけど。




大阪地方裁判所
北区西天満2-1-10

2009/05/20

北向地蔵尊はなぜ北を向いているのか

amazonがどんだけ便利になろうとも、2日に1回は確実に梅田の紀伊国屋書店を覗いてます。これはもう、生活のルーティンに確実に入ってしまってます。

ネットで本を探す場合、ある情報をもとに探すしかなく、しかもそこで見つけた情報にはすべて付加価値情報がついており、それはそれで便利なのですが、そこには偶然の出会いというもんがありません。

それ以外にも、本を選ぶ場合、装丁、紙質はもちろんのこと、紙の微妙なサイズやら奥付けまでの長さ、行間、字面、字間、フォントなどはとてもとても重要で、amazonでは得られないそうした情報が溢れまくっているリアル書店を、amazonがどんだけ便利になろうとも、僕はきっと利用し続けるのだと思います。

ある、目当ての本を探しにいく。その本を見つけ、取り出してパラパラとめくってみる。で、ふと、棚を見ると、その本の隣に、なにやら妙に気を引く本が鎮座している。で、そっちも手に取ってみる。すると、妙な色香を含んだ空気が僕の鼻孔をくすぐり、気がつけば、2冊分のカネを財布から抜き出しレジへ…。

なんてことは、リアル書店ではよくあることで。
この、妙な色香、というのが大切で、これは、その本全体が持つ雰囲気というか、オーラというか、放っている空気やメッセージを含めた全体性の塊のようなもので、これは、ネットを介したモニターからは、なかなか伝わってこんのですね。

まだあります。
ある本を欲したとして、amazonで注文します。今は便利になりましたから、2~3日後には、手元に届きます。
ところが、だ。このタイムラグがクセモノで、たとえ便利になったとしても、2~3日はやっぱりかかってしまうというのは、その場で手に入るタイムラグがゼロのリアル書店の利便性には、かなわんわけです。

で、今読みたい!と思ったもんでも、amazonで注文して2日経ち、手元に届いたとき、どういうわけか、それほど食指が動かなくなってしまっている。
なんてことも、ままあるわけです。
都市生活者の常で、日々、いろんなことを考え、惑わされ、インプットもアウトプットも激しく行なっている身としては、この移ろいやすい心持ちはいかんともしがたくて、即!というのは、かなりかなり重要な要素です。
回路が開いている瞬間なんて、一瞬なんだから!そのときに、ビタッとチャネルが噛み合って、その本と出会わないと、次に回路が開くまで、その本は積んどく状態になってしまうのです。



そういう不幸な出会いとすれ違いを避けるためにも僕は紀伊国屋書店に通うわけですが、この記事は、紀伊国屋書店について書いているのではないのでした。。。
ここまでは、枕(笑)



梅田の紀伊国屋書店の西側、三番街の一番南側にあたるところですが、ここに、お地蔵さんがおわします。
北向地蔵さんで、えらいこと人々の信仰が厚く、遠くからお参りにいらっしゃる方もいれば、毎日のようにお参りに来る方もいて、通勤の途中に立ち寄る人もたくさんいて、とにかくひっきりなしに、いろんな人がお参りに来ます。
僕も、梅田の紀伊国屋書店にしょっちゅう行ってる関係で、このお地蔵さんのまえをよく通ります。

ここです。

北向地蔵尊

北向地蔵尊

北向地蔵尊

ガンが治った、病気が治った、なんてのから、商売が上手くいった、お目当てのガッコに合格した、なんてのまで、とにかく、願掛けが成就した例は枚挙にいとまがないほどで、そのせいもあって、気前よくお賽銭が投げ込まれ、よう稼いではるお地蔵さんです。
年間で200万円は稼いで…、や、無粋な話はやめましょう。。

1891年(明治24年)、この付近の畑から自然石に刻まれたお地蔵さんが掘り出され、信仰の対象となり、当時の地主だった仲谷弥三兵衛氏が世話人となり、お堂を北向きに建立されたのが由来です。銘文もなにもないので、誰が製作して誰が発注したのかなど、このお地蔵さんのルーツは一切わかってません。

1966年(昭和41年)からの阪急梅田駅の移設拡張工事とともに、1969年(昭和44年)、阪急三番街が誕生したために、お堂は西へ50メートル移り、現在の地に鎮座されております。

説明文も、ちゃんと用意されていました。

北向地蔵尊



お地蔵さんのお堂を北向きに建てることは珍しいのですが、このお地蔵さんがなぜ北向きに祀られたのか。
そもそも、北側は、風水の見地からすると、悪い気が吹きだまっているところじゃないですか。
中国では「王者南面」の考えかたがあって、皇帝や王侯は北を背にして南を、家臣は北を向くかたちで王宮がつくられます。たとえば、京都の御所も、この様式を受け継いで、南向きにつくられています。北面の武士、という言葉も、ここから来てるし、京都で東が左京、西が右京なのも、その様式に則ってのことです。

北を向く仏壇をよしとしないのも、仏や先祖を下座に置くのは無礼だから、という気遣いから、生まれています。
なのに、ここのお地蔵さんのお堂は、北向きに建立されている。なぜか。

これは、そもそもお地蔵さんがどういうものなのか、というところにまで考えを巡らせないと、謎は解けません。

まず、お地蔵さんは菩薩の一種です。
菩薩とは、釈迦が悟りを開くまでの修行を一心に行なっている段階の姿を模したもので、一般的には、王子時代の釈迦の姿をされてます。なので、悟りの境地に達した如来と違って、王子の格好、アクセサリーで着飾った姿をしています。まだ、煩悩が残っている姿です。

ところが、その菩薩のなかにあって、地蔵菩薩だけは、一切のアクセサリーを纏わず、頭も丸めてらっしゃいます。
これは、お地蔵さんが、衆生済度のために奔走されていることに、由来します。

地蔵菩薩は、じつは、「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、その地位を辞し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続けるのですよ。
そーゆー存在なので、ヘアスタイルを気にしたり、アクセサリーで着飾っている暇もない、と。常に、民衆とともにいるのが、お地蔵さんです。

六道ってのは、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道のことで、人間は死んだらこのうちのどこか、地獄から天国までの6段階のどっかに行くわけですが、どっちにしろ、この六道の中をグルグル輪廻しているのが、我々人間です。
そして、お地蔵さんもまた、我々に寄り添い、救ってくれる、と。

なので、常に民衆とともにあることから、あえて人の下座、つまり、北向きに配されているのが、北向き地蔵です。

これ、お地蔵さんという存在の本質を理解していないと、他のお堂に倣って、南向きに建てるケースも多いんですね。現に、お地蔵さんでも、北向きに建てられているのは、全国でも400体ほどしかなくて、珍しい存在にすらなっています。本来、お地蔵さんにかぎっては、北向きが本筋なのですがね。

ということで、本筋であるのにもかかわらず、北向きに建てられたお地蔵さんはかえって珍しくて、一風変わった功徳がある、とされています。北向き地蔵は、一般的に、一願本尊としてのご利益があるとされ、願いごとをひとつ、聞いてくれます。

ここの北向地蔵も、そうした信仰を集めているお地蔵さんで、しかも霊験新たかというか、効き目がすごいので、参拝する人が絶えません。

僕も、この近くを通ったときのうちの何回かは、手を合わせています。



北向地蔵尊
大阪市北区芝田1-1-3
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2009/05/19

新型インフルエンザにかかったら8,400円以上の出費?

日曜、大阪でついに渡航歴のない人による新型インフルエンザの罹患患者が現れて、それもニュース速報がひっきりなしに、その人数を増やしていくのを見るにつけ、月曜の朝から、大阪市内はちょっとしたパニックになっとりますな。

JR天満駅前のドラッグストアには、いきなり、マスクを買う人の列ができてました。
で、町を歩いていると、マスク着用率の高いこと高いこと!

大阪市では、北区も含めて、市全域の幼稚園、小学校、中学校、高校、特別支援学校が臨時休校です。24日まで。

大阪市の発熱相談センターの電話もパンク。
一応、電話番号を載せておきますが、パンクですから!
06-6647-0956

例によって、なんだかなー、
ですね。

今回の新型インフルエンザは、いくら水際で防ごうとしたところで、潜伏期間があるんだから、その間に、国内に入られたら、国内で発症→二次感染、というのは避けられないわけです。

なので、罹患患者が発生したというよりも、発見された、と、表記するのが正しいわけで、そうすると、すでに僕たちはなんらかのかたちで彼らと接触もしている可能性も高いだろうし、慌ててマスク着用!なんてことじゃなくて、昨日までの通り、普通に手洗い励行とか、美味いもん食って体力つけとくとか、そーゆーことでいいと思うんですけど…。大体、新型インフルエンザの発生が確認されたのが4月で、今、5月中旬よ。これまでの潜伏期間中に接触してない確率なんて、どんだけのもんかわかったもんじゃありません。
第一、どーせ弱毒性のウイルスだってことなんだし、なんか、戒厳令並の対応って、例によって集団ヒステリー状態にしか見えないんですけど…。

ガッコはともかくとして、会社まで、マスク着用だとか、熱が出たら休むようにだとか、そんなお触れが出てるみたいで。
会社というところは、ここ数年、急激に、保育園化しているような気がします。
普通、咳が止まんないならマスクするだろうし、熱が出て仕事が出来ないなら、休むでしょ。そんなこと、いちいち会社に言われなくても、自分で判断してやるでしょ。
熱が出てても休めない仕事もあるだろうけれども、新型インフルエンザかもしれないから、ここは休もう、って、ニュースを見てるんだったら、それくらいの考えには、及ぶでしょうに。
接客業ならともかく、オフィス勤務でそんなことやって、なにをやってるんだか…。

それをわざわざ、全社規模で通達してる会社って、幼児を預かってる保育園とおんなじ感覚ではないですかね?

通勤にはマスクの着用を義務づけた会社もある、と。
お触れを出す会社も会社なら、幼児扱いするなと怒る社員もいない、みーんな、なんの疑問もなく、そんなお触れを受け入れてる図って、ちょっと空恐ろしいもんがありますな。なーんで、ゼニももらえん時間帯まで会社のお達しに拘束されて、なんの疑問を持たんのか。。
まあ、給料を無条件に天引きされて怒らない人たちだから、ムリもないのかな。

このへん、観察してると、庇護されたがってる人たちの生態が垣間見れて、笑けます。
会社に人生を預けてると、こんなことになっちゃうのかしら。

ま、勝手によろしくやってちょーだい。

そんなことより、こういう場合、真っ先に被害を被るのは、すでに学生を中心に発症している通り、社会的な弱者なので、そちらへのケアは、重点的にやってほしいもんです。
デイサービスなんかもきっと閉鎖だろうから、介護認定のお年寄りなんて、かなり厳しい状況に置かれると思うし…。




さて、有事に備えて(笑)
大阪市のサイトなんかを見てるわけですが、発熱相談の電話番号は記載されていても、発熱外来のある病院のリストは、ありませんでした。

ニュースを見てると、発熱外来もパンクしつつあるとあるので、どっかに広報されてるんでしょうが、とりあえず、市のサイトにはない。

ちなみに僕の家からだと、一番近いおっきな病院は北野病院ということになるので、発熱した場合は、きっとそこに行くことになりそうな気がするんですが、ここ、初診料がバカ高いのですよ…。

具体的にいくらなのかしらと、調べてみましたところ、
なんと、8,400円!
しかも、去年の4月から値上がりして、この値段に! それまでは5,250円(それでも高い!)だったので、60%増☆

初診料は、特定療養費として、各病院で好き勝手に決められる部分があるとはいえ、これは高い!
やっぱ、ホテルか?と見紛うほどの立派な病棟建てた病院は、すげーです。

これが、白亜の宮殿(笑)。

北野病院



でも、たしか、北野病院は、京都大学医学部に属する臨床医学研究用の病院なので、基本的には、研究施設のはずなのですよ。なのに、初診料がばか高い。。。

今の日清紡を一代で築き上げた田附政次郎が患った胸を完治させた京都大学医学部に感謝して、京大医学部に私財を寄付し、最高の医療を大阪の地に、と、研究所設立を託したのが、北野病院のはじまりですな。
1925年(大正14年)のこと。
こんときに、京大医学部内に財団法人田附興風会医学研究所が設立され、のち、大阪市から用地の提供を受け、昭和3年、研究事業遂行のための臨床医学研究用病院を附設、これが北野病院です。病院命名は、あの、関一市長。先代市長のお父さんですな。

だもんだから、固定資産税の課税処分を巡って、北野病院の経営母体である財団法人田附興風会は、市を相手どって、課税処分の取り消しを求めた裁判を起こしてますから。当医院は研究機関なのであって、営利を目的とした純然たる病院ではないのだから、固定資産税を徴収するなんておかしいやろ!と。徴収した分、返せ!と。

で、これが、1審、2審とも田附興風会の勝ちで、今年の2月に判決が出た最高裁でも田附興風会が勝って、大阪市はついに17億円を田附興風会に返還ですよ。大阪市、全敗☆ 財政難なのに、17億円返還☆ 北野病院、さぞかし腕のいい弁護士をつけた模様。

なのに、初診料8,400円(笑)

僕は、新型インフルエンザにかかったとして、発熱外来のある病院もわからず、とりあえず北野病院に行くことになって、初診料8,400円+検査料+診察料+薬代を支払うことになるんでしょうかね?(笑)
定額給付金、これでぶっとんだりして(笑)



ちなみに、ここらは今でこそ扇町ですが、かつては、淀川の南側から梅田一帯にかけて北野村と呼ばれていました。1924年(大正13年)の大幅な町名改正で、この地から、北野の名がとれました。今、行政区画上の北野の地名はどこにもないのですが、北野病院の名は、数少ないそのときの名残です。

あ、橋下知事の北野高校は、そのむかし、現在の済生会病院の場所にあって、そこもまた北野村だったので、北野高校となっとります。






北野病院(財団法人 田附興風会)
大阪市北区扇町2-4-20
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