2010/01/31

1杯500円の珈琲は高いか安いか?



僕が行きつけにしている喫茶店は、自分の仕事の前線基地でもあり、商談や情報収集の場として使っていて、企画を練るのに行き詰まったりしたときは景色を変えるために行ったりもするのですが、ま、このお店についてはちょいちょいこのブログでも書いてます。

この前線基地はじつに重宝していて、もはやなくてはならないお店になっているんですが、虐に、このお店ではキツい、静かに読書をしたり、企画を整理するための場所というものも、ほしかったりします。
ま、人間の贅沢には、天井がありませんからな。

で、ファミレスはテーブルがでっかいので、いろんなものをひろげて企画を整理するのにはいいんだけれども、うるさいんですよね。

それ以外にも、僕の場合、おしぼりのタオルが出てくる、雑誌や新聞が常備されている…、などなど、いろいろと注文がありまして、喫茶店選びもラクではありません。

さて、ガチャガチャした天満界隈でも数少ない静かなエリアとして、与力町あたりを挙げることができるかと思います。お寺さんが連なっていて、かつては寺町と呼ばれたエリアでもあり、今、裁判官の官舎なんかが秘かにあったりするエリア。

ここの一角に、フジオ珈琲という喫茶店があります。

どっから見ても喫茶店ですが、暖簾がかかっていたりして、ちょい上品。



ここのいいところは、テーブルが広い、おしぼりのタオルが出てくる、そしてなによりもお客さんがまばらで、かなり静か、という点ですわ。

なので、企画を練るというか、頭のなかでいろいろと渦巻いている企画を、でっかい紙をひろげて整理してかたちにしていくのに、ここのスペースはかなり有効なのです、僕にとっては。

ほいで、新聞もあって、雑誌もあって、おまけに坪庭のような庭がお店の奥にガラス越しにしつらえられていて、なかなかいいかんじなのです。






ただし、珈琲1杯で500円する。

ホテルのカフェも500円かそれ以上するところが多いですが、ホテルのカフェって、意外とざわついてるんで、ホテルに行くくらいなら、このフジオ珈琲に行きます。

でも、珈琲1杯に500円というのは、僕の心の相場をはるかに超えているので、ま、たまにしか行きません。1ヶ月に1回も行かないです。

でっかいプレゼンを控えてるときとか、莫大な資料を整理して企画を紙に落とし込んでいくときとか、そんなときだけ。




フジオ珈琲
大阪市北区与力町4-8 末広センタービル
tel. 06-4800-6670
7:30-21:00
無休

2010/01/29

A4判の印刷物は16倍の大きさの紙に一度に印刷してから、16枚に裁断します


ネット経由で利用したことがあるのですが、お店が、大阪市の北区に、しかも思いっきり僕の行動範囲にあるとは知りませんでした。

チャリを走らせていたら、たまたま見かけて、会社名を見て、そーいえばネット経由で印刷を発注したことがあるなあ、と、思い出したのでした。

そのサイトは、今、調べてみると閉鎖されているみたいで、ということはオンライン入稿できないってことなのですかね?

オンライン入稿のいいところは、いうまでもなく、データを持っていったり持ってきてもらったりする手間が省けること。そして安いことです。
ただ、データに不備があったりすると、そこで作業が止まったまんまになってしまったりして、ちょっと面倒なことになります。

そういうことを考えると、すぐに行けるところに印刷屋さんがあるというのは、そういう仕事をしている人にとっては、オンライン入稿よりも、はるかに便利です。
ネットだと、ヘタすると中国に印刷が発注されていて、途中での変更やらにかなりの力を要することがあったりするしね…。

その意味で、かつてネット経由でお付き合いのあった多聞印刷さんがチャリですぐの場所にあることを知ったのは、僕にとっては僥倖でした。

写真は、紙業メーカーから仕入れた紙を裁断するために、機械に取り込んでるところですな。
ここまで大きなロールは久しぶりに見ましたが、たとえばA4サイズの印刷物だと、このロール紙から縦横4倍ずつのサイズの紙に裁断して、一度に16枚を印刷し、最後に16枚のA4紙に裁断します。そうすると、オフセットの機械を1回まわすだけで16枚ができあがる寸法。
○○万円で購入した印刷機械を減価償却まで○○回まわして…、ってのが印刷屋さんの基本的な儲けの計算方法ですから、A4を16枚印刷するのに16回も機械を回していたのでは、商売になりません。





多聞印刷(株)
大阪市北区天神橋3丁目1-37
tel. 06-6358-3412

2010/01/28

「ふれあい喫茶」も知らんかったけど、そこに来てるオジィやオバァがじつにたくましいことも僕は知らんかった!

JR天満駅周辺の町会が集まった連合町会の名称は「菅北」というのですが、そのあたりの老人福祉は、菅北地域社会福祉協議会なる会が、その一端を担ってます。

どこの地域にもこの協議会はありますが、老人福祉は僕の身近にはあんまり関わりがなくて、まあ、そういうのがあるのだろうな、くらいに思っとりました。

そしたら、だ。

僕が仕事の前線基地のようにして使っている、JR天満駅の南側にある喫茶店『プランタン』のママさんが、こちらの協議会で活動されていて、その活動の一環で、「ふれあい喫茶」なるものをやっている、と。


えーと、プランタンはともかくとして、その、ふれあい喫茶というのがあってですな、毎月最終週の水曜のお昼に、このあたりの福祉会館である管北福祉会館にて行なわれているのだそうです。管北小学校の隣にあります。JR天満駅からだと、歩いて7、8分くらいですかね。

僕も普通に忙しくしている普通のオッサンなので、わざわざ見知らぬ老人のお世話のためにどこぞへ行くほどの善人ではなく、それを聞いても、ふーんというかんじだったのだけれども、このふれあい喫茶、プランタンで普段僕が飲んでいるコーヒーが100円、500円はするコーヒーゼリーも100円、その他諸々100均状態のメニューになっているらしく、それやったらプランタンでコーヒー飲まんでも!ってことで、その安さにつられて行ってきたのでした(笑)

行ってみると、手描きのなかなか味のある看板が出てました。



入口で食券を買うシステムなので、メニューを見てみると、




コーヒー、紅茶、オレンジジュース、アップルジュース、グリーンティなど、飲みものは軒並み100円。
コーヒーゼリーも100円。アイスクリームを載せると150円。
抹茶、ぜんざいも100円。
わらびもちは50円。

安っ!

全部手づくりで、コーヒーゼリーやらコーヒーやらは、普段はプランタンで出しているものとおんなじなので、ちゃーんとした立派な商品です。それが、軒並み100円☆

ぜんざいも買ってきたものじゃなくて、小豆を炊くところからちゃんとつくってるんで、2日がかりでつくってる、これまたちゃんとしたものらしいです。

本当はぜんざいを食べたかったのだけれども、食後だったせいもあってぜんざいはちょっと重そうだったから、コーヒーゼリーを食べたのでした。お店で食べる500円のコーヒーゼリーと、まったくおなじ☆
いやいや、これなら毎日でもふれあい喫茶を…(笑)





もちろんボランティアでされてるんで、毎日こんなところに入り浸って僕が邪魔するわけにはいかんのですが、こうやって喫茶店のオーナーが得意分野を生かして地のためのボランティア活動に取り組むのは、素敵なことですな。素人が情熱だけを頼りにいろいろやるのももちろんいいんだけど、餅屋がボランティアで餅をつくることができるのなら、それに敵うものはないと思いますわ。



僕が訪れたときはまだあんまり人が集まってなかったんだけれども、この直後、大群が押し寄せたらしいです。コーヒーゼリーなんて、ソッコーで売り切れ☆


さて、このふれあい喫茶、年金暮らしをされているだろうお年寄りの方々が来られているのですが、こういうものの存在をどうやって知っているのかをお聞きすると、なんと口コミ☆

ここだけにかぎらず、あちこちの地域の社会福祉協議会がふれあい喫茶を運営されているらしく、あっちのふれあい喫茶ではこんなメニューがあって、こっちのふれあい喫茶ではあんなメニューがあって、と、皆で情報交換しながら渡り歩いているというではないですか!(笑)

ここはパンがないからな~。
あっちのふれあい喫茶は焼きそばがあるねん!
とか(笑)

きっと、家に閉じこもりがちなお年寄りを外に引っぱり出すためにこうしたふれあい喫茶は運営されているんだと思うんですが、どーしてどーして、大阪のオバァやオジィ連中は、たくましいです。家に閉じこもってるどころか、連れ立って、あっちこっちのふれあい喫茶を渡り歩いている、と(笑)
これは知らん世界でしたわ(笑)


平日の昼間に開催されているので、いつもはお年寄りが多いですが、夏休みなんかになると、お子らもこぞってやって来るんだそうです。
ということも、僕はデンデン知りませんでした。いろいろやってますな、地域は。









管北ふれあい喫茶
会場:管北福祉会館
大阪市北区池田町1-50
毎月最終水曜の13:00~16:00

2010/01/27

太融寺にある淀君の墓は、なぜ婦女子さんに人気なのか?




豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の母である淀君の経歴については、今さらなので、ここでは省略します。

物語は、秀吉の死後からはじまります。
1599年(慶長4年)、淀君は秀頼とともに大坂城西の丸に入り、豊臣の再興を画策するんですが、1615年(元和元年)、大阪夏の陣で大坂城が落城したとき、秀頼とともに自刃しました。息子とともに立ち上がり、息子とともに死ぬなんざ、まさに、母は強し!とはこのことですな。

さて、その淀君の墓が、太融寺の境内、北西の角に、ひっそりとあります。
なぜ、彼女の墓が、太融寺にあるのか。

大坂城落城の果てに自刃して果てた淀君の遺骨は、淀君が厚く信仰していた大坂城外鴫野弁天島(現在のOBPあたりですわ)の弁天社の隣に、ひとつの祠をつくって埋められたのでした。これが、淀姫神社です。

その後、時代は下って1877年(明治10年)、現在の大阪城公園に城東練兵場が造成されることになり、この、淀姫神社は、生国魂神社に移祀されることになったのでした。
その際、豊臣家に縁の深い太融寺に遺骨を埋め、「九輪の塔」を建てたということです。現在は、6輪になっているのは、第2次大戦の大阪大空襲のときに損傷し、下段の3輪がなくなったんだとか。




墓の横には、碑文があります。





で、淀君はベッピンさんでもあったし、豊臣秀吉の寵愛も厚かったですから、戦前は、キタの花街のおねえちゃんたちが彼女にあやかろうと参拝する姿が後を絶たなかったといいます。

特に、「巳の日」の縁日のときには、参拝するおねえちゃんが大挙して押しかけたそうです。というのも、この淀君の墓の横に、彼女の墓所を守るかのようにして、雌神を祀る白龍大社があるから。この雌神は、白龍、つまり巳です。今では太融寺の境内の外になってしまいましたが、雄神の龍王大神を祀った社があり、そことは対になっていて、縁結びの神さまでもあります。

こちらが白龍大社。





そういうこともあって、巳の日の縁日のときは、婦女子さんがこちらに参る姿が見れますな。







太融寺
大阪市北区太融寺町3-7
tel. 06-6311-5480
拝観無料
HP http://www.evam.ne.jp/taiyuji/

2010/01/26

不思議な仕掛けがいっぱいのレトロビル「フジハラビル」は、いつ行っても新しくて楽しい☆



知り合いが絵の個展を開いたので、行ってきました。
会場は、大阪天満宮の南にある、フジハラビル。とてもとても、味わいのあるビルです。
はっきり言って、知り合いの絵は常時見ているので、個展はどうでもよかったんです(笑)それよりも、お目当てはフジハラビル!かーなりおもろいビルですよ☆

1923年(大正12年)の建築。外壁は味わい深い茶色のスクラッチタイルで、地下1階、地上4階。ギャラリーやデザイン事務所などとして使われてるビルです。ここで個展を開く人も後を絶たず、もはや名物ビルです。




レトロビルや古民家のリノベーションは今、大阪でもわりと盛んだけれども、フジハラビルは、そんなブームがやってくるずっと以前にリノベーションされたところです。というか、今もあちこちを補修していて、人を飽きさせない仕掛けも常に更新されてます。
もっとも、このビルのすごいところは、オーナーの藤原さんがたったひとりで10年がかりで補修されたというところ。ちなみに藤原さんは、大学で法律学の教鞭をとっておられた先生なので、素人っちゃ素人ですねん。

バブルの最中の1988年(昭和63年)に、おとうさんの藤二郎さんが亡くなり、それを機に、ビルのオーナー職に就かれたんですが、そんときは廃ビル同然の惨状で、取り壊そうと思ったらしいです。普通、そうしますわな。でも、おかあさんの「愛着のあるビルだから残してほしい」というひとことが、藤原さんを思いとどまらせ、一念発起して、ひとりリノベーション! もうね、DIY精神のカタマリみたいなもんですから☆

それからというもの、ホームセンターに毎日通い、道具を買っては壁を剥がしたりペンキを塗ったり。壊れていたトイレも修理したそうです。もちろん失敗も数多く、水道管を破裂させたことも何度もあるとかで。
それでもめげずにひとりで格闘し、ビルは少しずつ生き返らせます。
素人仕事ゆえ、ペンキ塗りにムラがあったり床がでこぼこしていたりもするんですが、それがまた不思議と建物の味わいを増してるんですよ。

薄暗いエントランスを通って階段を上がったところで、不意に小鳥の鳴き声がしたり(センサーで人に反応する仕組みになっている)、窓をのぞくと向かいの屋根に陶器の犬が寝そべっていたり…。
普通のビルにはない楽しみかたができます。




外観だけを見ると、耐震強度とか大丈夫なの?と不安になること請け合いなのですが(笑) 常に変化することをモットーにされているので、意外なほど新しい試みが導入されています。

ギャラリースペース確保のために徹夜で壁を抜いたり、ビル全体に音響設備を設置したり、窓に大型プロジェクターを仕込んで映像を流したりと、案外と最新設備が満載なのです。

地下と4階が多目的スペースになっていて、演劇やコンサートが行われてます。その演劇とリンクして1階窓のプロジェクターでは劇中劇の映像が流されたり…、ちょっと他では見られない仕掛けもあります。
2階と3階はテナントやデザイン事務所なのだけれども、階を上下する階段の壁いたるところが、ギャラリーになってます。もう、ビル全体がギャラリーのためのスペースみたいなもんです。







その、飽きなさ加減というか、レトロなビルなのに、常になにかしらの新しい発見があり、常になにかが更新されているところがね、このビルの素敵なところです。

もともとが破産法の専門家でもある法律家の藤原さんなので、多くの再生レトロビルが、改修するだけで満足してしまって一時的に人気が出てもすぐに飽きられてしまう現状をよく知っておられて、そうならないために活用される方策、テナントや貸しスペースとしての価値を高めるアイデアを、常に考えておられます。


これは、外壁に描いた壁画(笑)
フジハラビルが羽ばたいた画家さんが日展に入選され、それを記念して、壁画にしたそうです。吹きっさらしの絵って、すごいなっ!





ここみたいに生き生きとした近代建築って、滅多にないと思います。
それは、オーナーの藤原さんが、この建物に惜しみなく愛情を注いでおられるからです。
訪れてみると、そのことがよくわかります。











フジハラビル
大阪市北区天神橋1丁目10-4

2010/01/25

第7回北天満サイエンスカフェは「まちづくり」について語り合ったのでした

またまた北天満サイエンスカフェ!




年が明けて、すでに2回目です。ハイペースすぎます(笑)


そうそう、今回のサイエンスカフェは2本立てで、最初、黒崎公園で、アカペラグループ「sheepon」によるミニコンサートがありました。
mixiでメンバーを募って、できたヒューマン・ボイスを駆使するグループです。まだできたてほやほやのグループ。




けして上手いとは言えないけれども(笑) これから進んでいこう!って初々しさがあって、こちらまでフレッシュな気持ちになりました☆
トトロの主題歌とか「恋のバカンス」とか「亜麻色の髪の乙女」とか、誰もが知ってるメジャーな選曲も手伝って、やんやの盛り上がりでしたヨ。


最初に30分ばかり彼らのコンサートがあって、いよいよサイエンスカフェです。


でも、今回のテーマは、いわゆるサイエンスから少し離れて、「まちづくり」です。まちづくり全般の話から、北天満をどのようにしていけばいいのかまで、わがまちの話です
大阪市大創造都市研究科の牛場智さんが、お話してくれました。




話は、まちづくりとはなんぞや?という、根本的なところからはじまります。

「まちづくり」というのは、今、ちょっとしたブームというか、もてはやされているワードになっています。ところが、そうは言ってみても、言葉の定義はさまざまで、人によってさまざまに違うのが現状です。

でも、牛場さんがかかわってこられた体験からは、さまざまな立場の人がかかわってくることでもあるので、それぞれによって言葉の意味が違ってあたりまえ、むしろ、言葉の定義をカチッと決めてしまわないところによさがある、と、おっしゃってはりました。

たとえば、町をゼロからつくっていく場合、最初は住むところが要るわけですから、最初のまちづくりを担うのは、土木・建築の人々です。
そうやって生活のベースとなるモノができてくると、人が住みはじめ、自治の問題が持ち上がってきます。これは、法科の分野にかかわることです。
同時に、商業施設が生まれ、まちづくりに経済的な要素が加わってきます。

そして、その次があります。

たとえば、阪神大震災で町がぶっ壊れた長田に、昨年、鉄人28号のでっかい像が建ちました。
なぜ、そんなものが建ったのか?
道がキレイになり、建物が建ち、商店街も復興し、衣食住が足りて…(と、牛場さんはおっしゃるけれども、僕のブログをご覧いただいている方には、僕がそのことに大いに異論を持っていることは、おわかりだと思います。思いますが、そこはこのエントリーの本筋ではないので、スルーします。)、次のこと、生き甲斐や、人としての役割を求めていることの表現として、鉄人28号は建てられた、と、おっしゃってはりました。

というように、まちづくりには、さまざまな立場の人がかかわっていかなければならないので、それぞれの立場によって、まちづくりの言葉の意味も変わってきます。
なので、そこをカッチリと固めずにボンヤリとさせておくことで、各者が現場ですりあわせしやすくなる、ということです。

僕も今、まちづくりの一端を担ってますが、まさにそうだと思いますね。まちづくりとはこういうこと!と、ガチガチに決めてしまうと、必ず、軋轢を生みます。もっと緩い枠組みをつくっておいて、アメーバのようにくっついたり離れたり、変形させていくくらいの柔軟性は必要だと、痛感します。

こうした取り組みを、学問の世界では「創造都市」と呼ぶのだそうです。
芸術家や弁護士、金融エキスパートの人たちを使って、アイデアを生かすことで、まちをよくしていくというやりかた。
それの好例が、イタリアのボローニャであり、日本の金沢も該当するかも、ということです。

大阪市に絞ってみると、堀江、空掘、中崎西などは、地元の人たちだけでなく、外からの人を入れることで、アイデアを出し合い、あるいは地の人が見過ごしている魅力を再発見して、外にアピールすることで、町のブランド化に成功しています。
町の魅力が人を呼び、さらに魅力が増幅し…、集積の原理が働いて好循環が生まれています。

最初のとっかかりとしては、地元の人ゆえに見逃している地元の魅力を再発見して、外に向けて発信することのようです。
同時に、具体的な方法として、mapを作成すること。そのmapも、たとえば商店街なら、商店街だけのmapにするのではなく、商店街を含む地域のエリアをすべてをカバーして、面でアピールしていくことが、効果があるようです。

北天満サイエンスカフェの会場となっている天五中崎商店街でも、商店街周辺の地域を含めたmapが用意されています。



こちらは、マップについて説明する商店会長さんです。





とまあ、要約するとそういう話になるのですが、僕にはやはり異論があって、そのまちづくり論は、ある一面しか見ていないように思います。

昨年来より、僕は、仕事の行きがかり上、放置自転車問題に取り組んだり、交番と地域の防犯委員が情報を交換する交番連絡協議会に参加したり、年末の夜警に参加したり、自治会の有志が集まって道を掃除している現場を取材したり…、どちらかというと、まちづくりのなかでも、縁の下の力持ち的な、光のあたりにくいところに首を突っ込んできました。このブログでも、何度かエントリーしました。

そこから導き出した自分なりの解答は、ミーツ的まちづくり論は楽しいし、面白いし、ピカピカ光っているけれども、それができるのは、地元の地道な安全と安心への取り組みがあってこそなのではないか、ということです。

町には、人情なんて一見これっぽっちもなさそうな大都会であっても、振興町会、町会、商店会、自治会、防犯協会、福祉、PTA、講…、と、さまざまなネットワークが、じつは存在しています。

そこで活動される方は、皆、ボランティアで、地元を愛しているという一点で、問題に取り組んでおられます。
そして、そうした人たちの日々の活動があって初めて、華やかなまちづくりが展開できる、と、思っています。

牛場さんのお話を否定するつもりはないけれども、牛場さんは商業的な見地からのまちづくりを専門とされている方なので、どうしても、地元への目線が弱いな、と、僕は思ったのでした。

と思っていたら、今回のサイエンスカフェに参加されていた方々は、地で活動をされている方々がたくさんいらっしゃって、それも僕のように昨日今日活動をはじめた方々ではなく筋金入りの方々なので、そうした立場から話してくれた人がたくさんいて、最終的には、じつに多面的な、万華鏡のようなまちづくり論が交わされたように思います。

や、まじで、後半はメチャクチャ盛り上がりましたですよ☆

町会における世代間格差の問題だとか、新しく町に住まわれる方に町会に入ってもらうことから断られるケースまで、さまざまな事例が出てきました。そして、なにをやるにしても縦割り行政が邪魔をしていることや、なにかをはじめるときの住民の参加意識の温度差、果ては選挙の集票マシン的なことなど、など。。。
悪いが、表に出せない問題がてんこ盛りで、表に出せないということは、それだけおもろいということです(笑)

前半は少し白け気味にお話を聞いていたのですが、後半、やっぱり今回も参加してよかった!と。
いやいや、お後がよろしいようで(笑)






次回のサイエンスカフェは、2月13日。「大坂歴史ツアー 緒方洪庵と適塾」と題して、適塾を訪ねるそうです。

詳しくは、サイトをどうぞ。

http://kitatenma-cafe.com/


ただ…、適塾は北浜にありますから、北区ではありません。参加はする予定だけど、ブログに書くかどうかは思案中(笑)







北天満サイエンスカフェ
天五中崎通り商店街
大阪市北区黒崎町
HP http://kitatenma-cafe.com

2010/01/23

大阪が生んだ染めの技術「注染」を今に伝える「注染てぬぐい にじゆら」さんを訪ねる

北区では区役所が中心となって区内の伝統文化の継承にかんするプロジェクトを進めているらしいのですが、その一環として、区役所職員有志、学識経験者、職人、市民の有志による研究会、「職人研」というのがあります。

「北区の伝統文化活用方策研究会」なるお役所らしい堅苦しい正式名称がついていますが、要は、北区に今も残る職人さんの技や心意気を次代に伝えたり、職人さんが生き生きとしているまちのありかたを探ったりする会です。

職人研の活動については、こちらが参考になるかと。

http://www.city.osaka.lg.jp/kita/category/16-5-0-0-0.html


で、昨年末に、開催された『第2回 北区の伝統文化と職人さん展「ものづくりと手仕事を中心とした展示会」』を訪れた折りに、職人研の存在を知り、僕もソッコーで入れていただいたのでした。


そして今回、今年初の開催があったので、僕も早速参加してきたのでした。

一発目は、中崎西にある、手ぬぐい屋さん「注染てぬぐい にじゆら」さんの取材です。

にじゆらさんのHPはこちら。

http://nijiyura.jp




明治の半ばに大阪で発明された「注染」という技術を使って手ぬぐいをつくっておられるところです。

タオルに押されて手ぬぐいそのものがもはや伝統工芸の部類に入るような気がしないでもないですが、それに加えてさらに注染という技術を今に伝えているのが、にじゆらさんの特色です。

そもそもですが、手ぬぐいというのは、もっと見直されてもいいはず!と、思いますな。
僕、旅をしていたころは、手ぬぐいが重宝してました。タオルの質感も大好きですが、たとえば海でばしゃばしゃ遊んだりしたとき、タオルだと目に砂が入り込んでエラいことになるんですが、手ぬぐいだとそんなことはなくて、砂まみれの身体を拭いても、水分だけ吸収して、砂は払えばさっと落ちてくれます。

それに、速乾性があるので、スコールに出会ったときに頭に被せておくと、スコールが去って強烈な日射しがやって来るとともに、頭ごと手ぬぐいがすぐに乾いてくれます。

まあ、こんなことは、日本国内では役に立ちませんが(笑)

あと、柔らかいので、小物を包んだりするのにもピッタリです。まあ、もともとが包むためのものではないので形状的に難がある場合もありますが、風呂敷ほど大げさではなく、タオルは分厚いので、なかなか重宝します。なにかをプレゼントするときのラッピングに手ぬぐいを使って演出するなんてことも、たまにはやります。

もちろん、文字通り、手を拭うために使うのもアリですが(ちなみに、本来的には、手ぬぐいは頭に被るもので、手を拭うのはじつは「前掛け」のはずですが、どの時点で、手ぬぐいが手を拭うためのものになったんかは、僕、知りません。誰か教えてください!)、使いかたはいろいろあると思います。スカーフにもできるし、敷物にもできるし…。

さて、手ぬぐいについて書いている場合ではないのでした。
注染という、染めの技術について書きたいのでした。


注染と書いて、「chusen」と読みます。

型染の一種で、その名のとおり、染料を注いで染める技法です。

技法を詳しく説明します。もちろん、受け売りですよ!(笑)

1)
生地を糊付け台の上に敷き、木枠をかぶせて、柄をくり抜いた型紙を固定します。その上から、防染糊を木ヘラでムラが出ないように伸ばしていきます。型紙のくり抜いたところに糊が乗りますから、そこには染料が染み込まない、ということになります。マスキングの要領ですね。
最初のマスキングが終わると、木枠と型紙を上げて、残りの生地をおなじ長さだけ折り返し、再び木枠と型を装着して、防染糊をすりつけていきます。
ところで生地の長さは、1反の2倍、つまり1疋で、木枠と型紙は手ぬぐい1枚分の長さですから、この作業が、1疋分で25回。つまり、手ぬぐい25枚分をじゃばら状に折り畳んでいって、一度に行ないます。

これが店内に飾ってあった型です。




そしてこれが、これまた店内に飾ってあった糊付作業の様子を写していた写真です。





2)
折り重なった状態の布を染め台に置き、必要のない部分に染料が流れ出さないように、糊で土手をつくります。で、そのなかに、ドビンと呼ばれるじょうろで染料を注いでいきます。布を染料に浸すのではなく、注ぐので、「注染」という名称になっているわけです。
糊で土手をつくってそこに染料を注ぐために、1枚の布の部分部分で染め分けができるのが大きな特徴ですな。ドビンは、鉢の水やりほどの大きなものからスポイドのような小さなものまであって、かなり細かな染め分けができるようです。

これなどは、染め分けをふんだんに行なった、注染の特徴が生かされている好例です。




注いだ染料は、染台に設置されている減圧タンクで吸引します。下からポンプで吸引することで、生地の目をつぶすことなく染め上げることができ、生地の柔らかな肌触りを保つこともできます。
最初の注染が終わると、次は生地を引っくり返して、裏からも注染を行ないます。これで、裏表なく染め上げられるというわけ。

今の手ぬぐいの主流はプリントですが、プリントだと、表地だけに柄があって、裏にはなにもないです。これは、プリントが生地の上に柄をコーティングしているからですが、注染は生地の糸そのものを染めるので、表と裏でおなじ柄のおなじ色が表現でき、ここがプリントとの大きな差となってます。

3)
染めが終わると、洗いですね。染め上げた布を流水に浸し、防染糊と余分な染料を洗い流します。移染しないように素早く洗い流すのがコツだそうです。

4)
洗いが終わると、脱水して乾燥。その後、手ぬぐいのサイズに切り分けて、完成です☆


1反の2倍、つまり1疋、手ぬぐいにして25枚分を一度につくるので、合理化された手作業というか、準大量生産みたいなところがあって、このあたりが、大阪の発明らしいというか、大阪人気質を感じさせますな。

これは切り分けずに、反物の状態でお店に置いておいて、好きなサイズにカットできるようになっているものです。




もっとも、職人技に頼るところも多く、技術の習得には、かなりの年月を要するとのこと。
これ以上詳しく書くと膨大なテキスト量になってしまうので割愛しますが、2枚の型紙を使って図案を重ねたり、一度染めたものを部分的に色抜きしたり、グラデーションをかけたり、いろいろと応用編があるのです。もちろん、基本的な技術の習得だけでも大変なのは言うまでもなく。


にじゆらさんは、もともとは堺に工場を持ち、そちらで受注生産をされていた会社です。
それが今、中崎にブランドショップを構え、直営をされているのには、わけがあります。
この、注染の技術を残したい、もっともっと広めたい、という思いから、ショップを構え、技術の詳しい説明を行ない、この技術ならではの表現を楽しんでもらうことを、旨とされています。
ですから、新しい作家さんとのコラボレーションも積極的に行なっているし、海外にもアピールされています。

これはイギリス人のデザイナーがデザインした柄です。




お店に行くと、たくさんの商品があるのはもちろんのこと、注染のことをたーくさん説明していただけます。場合によっては、堺の工場を見学もさせてくれます。

いわゆる「用の美」ということになるのだと思うのですが、注染は、技術とデザインがわかちがたく結びついているところが、僕の心をくすぐりましたわ。職人技の技術があってこそ可能なデザイン、が、このお店では堪能できます。

この柄は、通常、花の部分に色が入るものですが、花を白抜きにしてバックを染め、そこにグラデーションをつけることで、技術の高さをデザインに生かしている好例です。






いやー、それにしても、今回は、いいもん見させていただきました。職人研に入れていただいてよかったです、マジで! 次回も楽しみです☆






注染てぬぐい にじゆら
大阪市北区中崎西4-1-7 グリーンシティ104
tel. 06-7492-1436
12:00-19:00
火休
HP http://nijiyura.jp

2010/01/22

天平時代の人間ブルドーザー・行基が造った(らしい)淀川天神社


国分寺のすぐ近くに、神社らしきものがあって、近づいてみると、「淀川天神社」と書かれていたのでした。
ちなみに、「天神社」は、古い言いかたでは、「あまつかむのやしろ」と読みます。天(あまつ)神(かむ)の社(やしろ)、ってことですね。

都島橋だったか毛馬橋だったかを渡って都島区に入ったところに淀川神社というのがあるので、そこの系列化なにかかと思って調べてみると、全然違いました(笑)

このあたりは、今でこそ長柄東、中、西と東西に三分割されてますが、かつては南北にわかれ、そのすぐ南に国分寺村がありました。で、淀川天神社は、国分寺村の氏神さんです。
というわけで、この近辺には、長柄八幡宮、南長柄八幡宮、淀川天神社と、狭い地域なのにもかかわらず、ちゃんと村々に氏神さんが祀られている、なかなか文明の発達した地域だったということがわかります。

もちろん、この場合の淀川というのは、旧淀川、つまり、今の大川のことですね。

いつごろ建立された寺院なのかはよくわかってないのだけれども、江戸中期に発行された「浪華往古圓」によると、その時点ですでに古い神社であるという認識があったようです。

石碑には、天平10年、行基がこの地を訪れた際に開拓の守護神として天穂日命を祀り、天神社と称した、とあります。
行基といえば奈良時代の人間ブルドーザーというか奈良時代の田中角栄というか、とにかく、近畿一円におびただしい数の土木と建築にかかわっているので、ここも石碑にある通り、行基の発案で建てられたものかもしれません。
ただ、生き菩薩とまでいわれた行基なので、多分に伝説化されていることも多く、果たして、天平の時代に行基が建てたという縁起も、どこまで信用していいのやら、と、僕はにらんでます。
行基が歩んだルートとしては、奈良盆地から河内平野、大阪一円ですから、船でまわった可能性も高く、ここらもまた大川の水辺ですから、その伝でいくと、行基説も、そうそう無碍にはできないので、微妙なところです。
ただ、行基は仏教の私度僧なので、その人が天穂日命を祀り、神社を建てた、というところに違和感があります。いかに、神仏習合の日本とはいえ。
で、国分寺の守護ということならわからないでもないのですが、そういう記述はどこにもありません。

つまるところ、この神社の縁起は、よくわからん、というしかないです。

明治末期、行政主導による神社合祀、つまり統廃合の嵐が吹き荒れ、各地で村の氏神さんが失われていき、この淀川天神社も統廃合される運命にあったのですが、地元の人々の熱心な反対運動により、近隣の神社に合祀されることなく存続。それどころか、ずっと南の砂原屋敷の稲荷を取り込んで末社にしてしまったというので、当時の地元の人々の、この神社への執着はかなり強いみたいです。

なお、現在の神殿(瓦葺流造)は、明治43年に中島村(東淀川区)の神社神殿を買い受け建て替えたもので、享保年間の社殿と推察されています。
古い建造物としては、裏門の鳥居(明治末期まで表門)、明和・寛政年間の石燈籠、宝暦5年の木造彩色狛犬、文化8年の石狛犬などがある、と。

空襲で焼けなかったのだな。



本殿です。




由緒が刻まれた石碑。




鳥居のすぐ横に、立派なイチョウの木があります。ご神木とは書かれてなかったけれども、ほとんどご神木みたいな存在感ですね。









淀川天神社
大阪市北区国分寺1-4-1
tel. 06-6353-6537

2010/01/21

茶屋「河庄」跡碑の前に立ち、かつての蜆川に思いを馳せる


キタは相変わらず再開発が進んでいて、超高層ビルや巨大地下街といった「つくりもの」がよく似合っていて、それこそ遊園地やテーマパークといった趣もあるわけだけれども、といって、実際のテーマパークのような、統一されたテーマに沿って都市が形成されているわけでは、ないです。

地勢的、政治的な思惑もさることながら、地相だとか地霊だとかいう因縁話めいた不合理な理由によって、自由な「つくりもの」であるはずの都市形成が、規制されもします。
その意味で、都市は、つくりものでありながら、暗黙の拘束によって過去を受け継がざるを得ないですね。
もっとも、そうした闇のようなものがあってこそ、都市は生きているし、闇の深さだけ眩しい光があって、重層的な深みが出てくるのだとも、グルグルと北区をチャリで走りまわっていて、実感します。

北区は水路を必要としなくなって久しいですが、それでも、表層の変貌だけでは拭いされない微細な表情が残っていて、水路であったことすら忘れ去られていたとしても、水が流れていたころの痕跡を残しているところが、いくつかあります。

むかし、曽根崎新地と堂島のあいだには曽根崎川が流れていて、その北側の梅田一帯は田園地帯で縦横に小川が流れていたといいます。

曽根崎新地1丁目のスエヒロの裏手から南側に抜ける道があって、裏道というと暖簾を上げている店には失礼だけれども、勝手口のほうが多いので、そういう雰囲気を漂わせてます。
この道、スエヒロから緩く下りになっていて、この微妙な傾斜が、かつてここが水路だったのだろうな、ということを、感じさせます。

この水路は、曽根崎川に架かっていた曽根崎橋と桜橋の中間から北東へ伸びた水路の分流で、そこから北へ伸びた水路は、国道2号線を横切って駅前第2ビルの東を北へ北へと進んでいくのだけれども、西向きにカーブを切ってます。そのカーブが、そっくりそのまま駅前第2ビルのいびつなかたちになっていて、この、駅前第2ビルのいびつなかたちこそ、その周囲を水路が流れていた痕跡なのだということが、このあたりに立つと、よくわかります。
ためしにgoogle mapで見ると、もっとよくわかります。

このあたり、かつて存在した曽根崎川は、別名、蜆川といって、もともとは清流だったのが、毛馬閘門が造られたせいで水が淀み、ジメジメした川となったことから蜆川、あるいは実際に蜆が採れたことから蜆川と呼ばれた川です。

明治42年の北の大火(天満焼け)のとき、蜆川は焼け跡から出た瓦礫の捨て場となって埋め立てられ、明治45年に上流部分が、大正13年に残りがすべて埋め立てられて姿を消したんですが、その蜆川のことをなぜ延々と書いているのかというと、北新地の歴史を語るうえで、この、蜆川を外すして語ることはできないからです。

1688年(元禄元年)、蜆川の南側に堂島新地ができ、1708年(宝永5年)、今度は蜆川の北側に、曽根崎新地が誕生します。
江戸は元禄の、絢爛な町人文化が花開くときです。
遊女を置く茶屋がたくさんできて、これが今の、新地の歓楽街の原型です。

さて、新地といえば、「曾根崎心中」と「心中天網島」のふたつの物語を生んだ土地ですが、そのうちのひとつ、「心中天網島」の舞台となった、茶屋の河庄の跡碑を、見つけました。

紙屋の旦那である治兵衛と新地のホステスさん小春の不倫話で片付けるには重層的すぎる話ですが、その舞台となった茶屋の河庄が、蜆川沿いにあり、その場所は、埋め立てられたゆえに現在は裏道としての香りを放っている、ということに、この場所に立って改めて気づき、都市の光と影を見る思いがしたのでした。



現に、忘れ去られたかのように、自販機と自販機のあいだに挟まれ、ゴミ箱と跡碑が同居しています。



茶屋「河庄」跡碑
大阪市北区曽根崎新地6

2010/01/20

堂島の地に国産ビール発祥の地(ただし、なにが発祥かはややこしい!)




新地でチャリを走らせていたとき、ふと目に止まったのが、「国産ビール発祥の地」の碑。
ん? たしか、僕の記憶に間違いがなければ、国産ビールの発祥は横浜だったはず。むかし、横浜に行った折り、そういう碑を見かけた記憶があります。

なんでかなー、と頭にクエスチョンマークを浮かべながら曽根崎の碑文を見てみると、
「我が国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人が行なっていたが、日本人の手によるものとしては、渋谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。
当初は大阪通商会社で、1871年(明治4年)に計画された。これは、外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが、実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり、綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の渋谷庄三郎が引き継ぎ、1872年(明治5年)3月から、このあたりに醸造所を設け、ビールの製造・販売を開始した。銘柄は「渋谷ビール」といい、犬のマークのついたラベルであった。年間約32~45キロリットルを製造し、中之島近辺や川口の居留地の外国人らに販売した。」
と、大阪市教育委員会が書いたテキストがありました。

なるほど。日本人の手によって醸造された最初のビールが、ここでつくられ、販売されていたということですね。

ちなみに、この渋谷ビールは、今でも、堂島麦酒醸造所が「北新地ビール」として提供してるらしいです。僕はビールを飲まないのでよく知らないのですが、これは名の知れた地ビールなんでしょうか?



ところで、ビール発祥を名乗る地は、ここ以外にも、冒頭で書いた横浜、さらには東京の品川も名乗っているらしいです。

「日本で最初のビール醸造所」は、1869年(明治2年)に、現在の横浜市中区にある外国人居留地で外国人が建てた「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」であることが定説になっているみたいです。

そこから500mほど東には、「日本におけるビール醸造の開源」の碑があり、こちらは「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」に遅れること1年後の1870年(明治3年)にアメリカ人が「スプリング・バレー・ブルワリー」を設立した場所で、現在のキリンビールのルーツですわ。

ほいで、品川ですが、こちらは、「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」とおなじ1869年(明治2年)に、当時の品川県が、県民の雇用を確保する名目でビール製造所を開設したことから、ビール発祥の地に名乗りをあげているとのこと。

ただ、横浜には詳しい資料が証拠とともに残っているのに対して、品川説は、まだまだ資料不足で完全な証明にいたってない、と。

もっともですな、いろいろと調べていくと、さまざまな事実が浮かび上がってきましてですね、、、、

醸造所といった規模ではないものなら、江戸時代の1812年(文化9年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが自家醸造したという記録があり、これが、「日本で初めて醸造されたビール」ということになるようです。

また、1853年(嘉永6年)には、江戸で、蘭学者の川本幸民がオランダの本を参考にしてビールの醸造に挑んでいます。化学実験的な要素が強かったみたいですが、「日本人による初めて醸造されたビール」ということなら、これが初です。

ということで、整理すると、

1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸造される。
1853年(嘉永6年) 江戸で川本幸民が、日本人として初めてビールの醸造を成功させる。
1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。(同年、品川でもビール醸造所が設立されたとの説がある)
1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって初めて産業的にビールが醸造・販売される。


ということになります。
ああ、ややこしいっ!







国産ビール発祥の地
大阪市北区堂島1-4-30

2010/01/19

天満で120年の老舗でも宣伝は最先端の、ゴマの和田萬商店

むかし、ゴマ豆腐をつくったことがあります。

炒りゴマをすり鉢に入れて、ひたすら擦ります。ここがこの料理の肝というか、精進料理らしいところで、優に30分以上、ゴマから油が出てシットリしてくるまで、無心になって擦ります。

で、ペースト状になるまで擦ったら、片栗粉を少しずつ加えて、同時に水も少しずつ加えて、ペーストをのばしていきます。この、少しずつ、というのも、精進料理っぽい。

次に、水と片栗粉でのばしたゴマのペーストを鍋に移して、強火でグツグツやります。木べらで混ぜて、焦げないように、付きっきりでやらないと無理です。ここもまた、精進料理っぽい。
次第に固まりはじめるので、そしたら中火にして、全体に艶が出るまでさらに練るようにしてかき混ぜていきます。

最後は、型を用意して、流し込み、濡れ布巾で表面を覆って、冷蔵庫で冷やし固めて、完成。

出汁醤油にワサビで食べると、絶品☆


コツは、ひとつひとつの作業を丁寧に丁寧にこなす。それだけ。そのあたりに、精進料理たる所以があるような気もするのですが、いかがかですかいな?


ま、ゴマも、わざわざゴマ豆腐にしなくてもいろいろと使い途はあるわけで、それこそ日常的なものですが、よく考えたら、スーパーでしか売ってるところを見たことがありません。
ゴマ専門店って、あったかなー?と、つらつらと考えていたら、ハタと思い当たる節があって、そうそう!あそこがあったじゃないか!と、ちょいとチャリを飛ばしていってきました。

や、特に用事があってのことではなかったのですが、ゴマもさることながら、ここは、社屋に特徴があって、どっちかというと、そっち方面で記憶していたのでした。

天神橋筋の商店街をずーっと南へ下っていくと、天神橋に出るのですが、橋の北詰手前を東に曲がると、菅原町という、きっと菅原道真に縁があったであろうエリアがありまして、狭いところなのですが、なかなか由緒正しい商店や建物が軒を連ねていたりします。

そこにね、天満名物、ゴマ専門で120年の「和田萬商店」が暖簾を出しているのですよ~。

ゴマの和田萬


古いっちゃ古いんですが、早くからサイトを立ち上げたり、キャラクターをつくって展開したりと、売りかたは、結構、先頭集団を走ってるお店です。
もともと大阪人も新しもん好きだし、その意味では、大阪商人の伝統を踏まえているのかもしれませんね。

サイトは、こんなのです。随所に遊び心もあって、コンテンツも充実していて、なかなか楽しいサイトです。好きですわ、こういうの。

http://wadaman.com/

ま、サイトにもあちこちに登場してますが、キャラクターの「ごまやん」がね、奮ってます(笑)
で、このごまやんが、本店ビルの壁面一面に描かれていて、お尻から大量のゴマを噴出させてますからね。なかなかシュールな絵です。シュールでド派手なのですが、不思議とうるさくなくて、イヤなかんじもしません。
ここの壁を製作されたクリエイターか職人さんか知りませんけど、なかなかの腕前やと思います。というよりも、発注主のお店のご主人の商売人的感覚が生きてるような気もします。


正面からだと奥行きがないので、カメラのフレームに収まりません! 斜めからでも、この
とおり。。。。



これが、和田萬のキャラクター、ごまやん☆






サイトを見てると、なんと、天満天神繁昌亭の横に、直営のお店を出してはるんですね。知らんかったです。

よく考えたら、ここでゴマを買ったことがないので、今度買って、またゴマ豆腐でもつくってみますかな。



ゴマの和田萬商店(本社)
大阪市北区菅原町9-5
tel. 06-6364-4387 0120-50-7380
HP http://wadaman.com

2010/01/18

今年一発目の北天満サイエンスカフェは「地球の未来を考えよう! ~気候変動と私たちのくらし~」です☆

昨年秋からはじまって、最初の回以外はすべて参加している「北天満サイエンスカフェ」の、今年第一発目が開催されました☆ 

また今年も春先まで隔週ペースで開催されるのですが、できるだけ都合つけて参加するつもり。もう、意地みたいになってきましたわ(笑)

で今回は、第6回目「地球の未来を考えよう! ~気候変動と私たちのくらし~」です。








話題を提供してくださったのは、日本科学者会議幹事の岩本智之さん。かつて、京都大学の原子炉実験所にいらっしゃった、そしてつい先日はコペンハーゲンで行なわれていたCOP15にも出席されていたという…、これは超エラい科学者なのではないか? もっとも、肩書きほどの近寄りがたさはなく、時折笑いを盛り込んだ軽妙洒脱な語りは、なかなかおもしろかったです!




で、まずはその、コペンハーゲンで行なわれたCOP15の話題からです。

年末にコペンハーゲンで行なわれていたCOP15、すなわち「国連気候変動枠組条約第15回締結国会議」は、京都議定書以降の拘束力のある枠組みづくりを行なう会議でした。190ヶ国から政府首脳、NGO、メディアが約40,000人集まったという…、よく考えたらそんなにいっぺんに集まったらなんも決まらんだろ!と思わんでもない、巨大な会議なのでした。政府首脳だけで120ヶ国から集まったのですが、NY以外で、それだけの国の政府首脳が集まったのは、初めてのことらしいです。そんだけ、温暖化対策が喫緊の課題として認識されているということですね。

年末のクソ忙しい時期だったので、たしか鳩山首相も行ってなにやらやってたくらいにしかニュースを見ていないのだけれども、案の定、紛糾しまくってたみたいですな。
そりゃね、先進国はCO2の排出量規制を望むけど、発展途上国からしたら、んなことしたら経済成長にブレーキがかかるわけで、そもそも先進国がこれまでに精出してCO2出してきたんだから、あんたらが責任持たんかい!って話にもなるんだろうし、合意をとりつけるのは難しいにきまってる。

で、合意できたのは、「世界の気温上昇を2℃以内に抑えるべきという科学的見地を認識」のみ。
世界の平均気温が2℃上昇すると、全人類がなんらかの災害を被るのでなんとしてでも抑えなければならない、ということなのだそうですが、これは科学的にかなり信憑性のある予測なので、これが前提で話が進まんといけないはずなのですが、合意したのは、この前提を全世界が共通の認識として持ちましょう!と、それだけ。

もうね、いかになんも決まらんかった会議か!ということが、これだけでも垣間見えますな。
政治経済文化のすべてにまたがってくることなので、容易ではないんでしょうな。

さて、COP15をとりまく、地球環境の科学的な話ですが、ここからがおもしろいところで、新聞には載らない、科学雑誌に載ってるようなお話が聞けるわけです。

僕は、カネを払ってなにかを学ぶのはまっぴらゴメンで、学ぶことで稼げる、あるいはタダで学ぶのが大好きなので、こういう場は、ほんと好きです☆

世界の平均気温は、この100年間で0.4℃上昇しているらしいです。
COP15で合意を得た「今から2℃上昇すると全人類がなんらかの被害を被る」を鑑みると、わずか0.4℃とはいえ、これは結構な数値ですね。
ちなみに大阪だけで見ると、この100年で2℃以上上昇しているらしいです。ヒートアイランド現象のせいですね。

そして、湿度はどんどん乾燥していってるんだとか。どうりで肌がカサカサに…、や、それはべつのところに要因があるんだろうけれども(笑)

さらに話は専門的になっていきます。

温暖化の現象が見られるのは、じつは、地表のあたり10数キロまでのあいだのことであって、そっからうえの成層圏では、逆に、この17年間で約20℃、気温が下がっているんだそうです。
つまり、下の空気はどんどん暖かくなり、上の空気がどんどん冷たくなっているのだから、このせいで大気の対流現象が起こり、大気が不安定となり、異常気象が起こりやすい環境ができあがっているのが、今の状態なんだそうです。

このあたりの話はマジでスリリングで、科学雑誌をめくったら載ってるんでしょうが、んなもん専門用語のオンパレードでどうせ門外漢にはわからんのだから、こうやって噛み砕いたお話を直接聞ける機会というのは、絶対に貴重だと思いますわ。


温暖化を原因とする現象は世界中のいたるところで見られ、

遅くとも21世紀の半ばには夏の北極から氷がなくなり、埋まっているメタンガスが湧き出て温暖化にさらに拍車がかかる。

キリバス、ツバルなどの太平洋の島国、モルジブなどのインド洋の島国は刻一刻と国土が沈没し、モンゴルやアフリカのブルキナファソなどの大陸内陸部では砂漠化が進み、沖縄の珊瑚礁は石化し…。

こうした世界中の現象はメディアででも紹介されるけれども、そのメカニズムはなかなか噛み砕いて紹介されない。それが、今回のお話ではよくわかりました。そこがよかったですわ。

ほいでですな、岩本先生は、ご自宅に太陽光パネルを設置して、いわもと発電所と称しておられるのですが、工事費含めて310万円をまず290万円に値切った上で、補助金申請で50万円を補助してもらい、240万円で設置されたんだそうです。で、年間20万円程度の電力を関西電力に売ってるといいますから、12年で償却できるわけですよ。その間、電気代がかかってないので、これは初期投資としてはいいですな。

この話は、けっこう、食いつきがよくて、みなさん、こぞって詳しいことを聞いてはりました。さすが大阪人、儲かるだの得するだのといった話になると、目がキラーンとなります(笑)






そして今回は、なんと静岡大学でやはりサイエンスカフェを運営されている学生さんがわざわざ静岡から見学に! 僕のブログを見て、北天満サイエンスカフェのことを知ったそうです☆右は、北天満サイエンスカフェの長野先生。
静岡大学の宮田さんが主催されているサイエンスカフェは、こちら。

リベラルアーツカフェ -静岡の教養-



ということで、今回はマジで勉強になったサイエンスカフェでした。
次回は、1月23日(土)14:00~
「まちづくりサイエンスカフェ」です。

場所は、天五中崎通り商店街のHeArt美容室。
HeArt美容室はこんなとこ。ロゴが印象的なお店です。




詳しくは、サイトをどうぞ。

http://kitatenma-cafe.com/







北天満サイエンスカフェ
天五中崎通り商店街
大阪市北区黒崎町
HP http://kitatenma-cafe.com

2010/01/17

あれから15年。震災の日、誕生日に思う。

少しまえになるけれども、神戸の成人式を覗いてました。
毎年、そうしてます。この時期は、勢い、震災関係の話題が出るからです。

娘さんの誕生日の1週間前に震災があり、娘さんを亡くしたおとうさんは、それまで仕事中心の生活であまり娘さんをかまってやれなかったことを悔いている。 フラメンコ・ダンサーになりたかった娘さんの夢を少しでも理解しようと、おとうさんは今、スペイン語を猛勉強して、娘さんが憧れたスペインを旅しようとしている。 

西宮で被災し、親を亡くし、家をなくし、大切な品をなくし、そのうえ、その後の土地問題で兄弟姉妹が縁をなくし、なにもなくなったうえにガンを宣告されて、現在も闘病中の方がいる。 

震災でおかあさんを亡くし、おかあさんと一緒にプールや動物園に行ったたくさんの思い出をなくした。でも、震災後に設立されたあしなが育英会で、おなじ境遇の友だちに出会い、今では逆に、幼い子の世話をするようになり、子供らに元気をもらっている。そして最近、おかあさんを知る人に、喋りかたや顔がおかあさんに似てきた、と言われ、嬉しくなっておかあさんに報告した。

震災のとき、おじいちゃんとおなじ部屋で寝ていて、自宅は突き上げるように揺れて全壊。気がつくと、目のまえに壁が迫り、瓦礫に囲まれて、すごく怖かった。でも、おじいちゃんがしっかり抱きしめてくれて、励ましてくれた。
正午近くになって救出されたけれども、おじいちゃんは、その日の夜に亡くなった。
おじいちゃんは和牛飼育の名人で、いつもかわいがってくれた。中学生のときに調理師になることを決め、魚好きのおじいちゃんに、得意の魚の煮付けを食べてほしかった。地域で慕われたおじいちゃんのように、信頼される料理人になることが目標。

毎年のことなのだけれども、そういう固有の物語をいくつか聞いて、しんみりとしてました。


今年成人式を迎えた方々は、震災当時は5歳でした。
幼かったために、靄のかかったような薄い痕跡しか記憶に留めていない人も、たくさんいるようです。
それでも、小学校や中学校で、震災についての思い出を書いてくださいといったような課題を、何度も何度も受けさせられてきたようです。
そうすることで、記憶を鮮明にしていったり、やはり薄い記憶のままでイヤイヤ課題をこなしてきたり…、年端もいかないころのことでもあるし、当然といえば当然のことだけれども、濃淡はさまざまにあるようです。




また今年も、1月17日がやって来ました。
もう、15年になります。5歳だったお子らは、成人式を迎えました。

15年まえの1995年の1月17日、朝5時46分に、ドーンという、地の底から巨大で不条理ななにかが突き上げてくる衝撃があって、大阪から神戸の一帯は、グチャグチャにされたのでした。

その日は、僕の誕生日でね。
でも、この日を素直に誕生日だと思うことは、もう、ないですね。

当時、僕は、大阪の北摂は豊中というベッドタウンに住んでいて、建物の倒壊こそなかったですが、家のなかはグッチャグチャ、皿やらビンやらの大半が割れ、CDは散乱し、CDのプラケースは割れまくり、2台あったテレビの1台がひっくり返ってブラウン管が割れ、食卓のテーブルは部屋の端まで吹っ飛び、エアコンの室外機がぶっ飛んで壊れました。

普通の地震とはまったく違っていて、ドーン!と、下から突き上げるような衝撃だったので、最初は、爆弾かと思ったもんです。
南米のペルーに住んでいたときは、過激派の連中がよく爆弾を爆発させていて、そんときの衝撃とよく似ていたのですね。でももちろんテロなんて日本ではそうそうあるもんじゃないから(相前後してオウム真理教がやらかしてくれたことも、個人的には澱のように、心の底をずっしりと覆っています)、慌ててテレビをつけたら、神戸が瓦礫の山です。

あまりの出来事で、部屋中が散乱して足の踏み場もない状態で、片付けなきゃいけないのはわかっているんだけれども、しばらくは、なーんもできなかったです。そのあとも余震が怖くてね、そっから数ヶ月はエレベータに乗れなかったほどで。図太さにかけてはよっぽどの自信はあるけれども、それでも、何ヶ月も、エレベータには怖くて乗れませんでした。エレベータに乗ってるときに地震が来たらと思うと、怖くてね。PSTDって言葉を耳にするようになったのはこの時期からだと思うけれども、PSTDってこういうことか、と、知ったもんです。それでも、僕のなんて、引っ掻き傷みたいなもんだけれども。


建物の倒壊もなく、ライフラインもすべて通じていたので、翌日だったか翌々日だったかには、神戸に向けて走ってました。
幸いにして僕の知り合いはほとんどが無事だったのだけれども、神戸には、当時の相方の知り合いの外国人がたくさんいて、彼らや彼女らが、かなり深刻な被害に遭っていて、迎えにいこう!ってことになって。
電話がなかなか通じなくて、でも国際電話がわりあいと通じやすかったので、香港の知り合いをベースにして、そこに伝言をあずけるかたちで連絡とってました。まだ、ネットもメールもなかった時代のことです。

高速道路が波打って倒壊していて、あんな風景、あとにも先にも見たことがないです。
垂直に建っているはずのものが大きく歪んで建っているのを見ると、平衡感覚がおかしくなりますね。三半規管って、視覚からの情報があって初めて機能するんだな、ということを、そのときに実感しました。

迎えにいった外国人は10人以上で、皆、家をなくしてるから、僕の家に寝泊まりしてました。
最大で、11人が僕の家で寝泊まりしてました。広い家じゃないから、もちろん雑魚寝で、それこそ足の踏み場もないくらいだったけれども、なんだか楽しかったですね。
いろんな国の言葉が飛び交ってね。公用語を決めよう!ってなったんだけれども、英語とスペイン語とアラビア語以上に絞りようがなくて、誰かがスペイン語を英語に翻訳して、その英語をまた誰かがアラビア語に翻訳して伝えてって、伝言ゲームみたいになってました。話がね、よく食い違うんだよ(笑)今日の晩ゴハン当番は○○!って単純な話ですら、最終的には食い違う始末で(笑)でも、合宿生活みたいで、楽しかったです。



知り合いの外国人も、知り合いの知り合いの外国人も、何人もピストン輸送して、そうしているなかで、僕は、長田のオバァやオジィ連中と知り合うことになったのでした。

長田は、在日コリアンやらウチナンチューやら、いわゆる故郷を離れた人たちが住んでいる土地です。それも、住んでいたというよりは、そこに押し込められた、そこにしか住むことができなかった、という土地です。
水はけが悪くて、ようするに、下層の土地。

大規模災害というのは、皆が一様に被害を受けているように見えて、じつは、如実に格差が出るものでも、ありますね。
持たざる人たち、ギリギリの生活を余儀なくされてきた人たちが、ひとたび災害に遭うと、悲惨です。欠けてしまったものを、自力で埋め合わせる余力は、もう、どこにも残っていません。
復興に尽力した市民派の小田実は、彼らは政府によって捨てられた棄民だ!と、看破しました。
黒田門下の大谷昭宏は、最初の5分は天災だったかもしれないが、それ以降は人災だ!と、咆哮しました。

その状況に、一番怒りを覚えていたのは、当時の僕の相方でした。
彼女は、格差があたりまえにあるペルーで生まれ育ってますから、持てる者が持たざる人と手を繋ぐのはあたりまえの環境を生きてきました。
当時、ボランティアの意識が国中に芽生えはじめていたとはいえ、彼女の目から見て、長田のオバァやオジィたちの置かれた状況は、怒り以外のなにものでもなかったのですね。

看護婦の資格を持っており、もともとボランティア精神も旺盛だった彼女に引っぱられるかたちで、僕も、長田によく行きました。
それから15年が経って、今でもまだまったくおなじことを思うけれども、長田のオバァたちオジィたちが生き延びるための最大の障害になっていることは、笑い、です。
身寄りがないので、そもそもが孤独です。そして、テレビは、長田のオバァやオジィのような年寄りには、笑いを提供してくれないのですね。
一日に、一度も会話がない。言葉を発することもない。あはは、と、笑うことがない。
これはね、やっぱり、生きる気力を萎えさせます。
孤独死は今もあるし、死ねばニュースになるけれども、死なないまでも、会話がない、言葉を発することがない、あははと笑うことがない、という生活は、死んでいるも同然です。泳がない魚、泣かない赤ん坊です。でも、その生活のさまは、なかなか外には伝わっていかない。
そのことの重要性を、僕は、当時も、そして今も、ずーっと痛感します。だからこそ、せめて、一緒にあははと笑おう、そう思って、僕は、長田に遊びにいきます。
ボランティアという言葉の在りようは自分なりに持っているつもりだけれども、僕は、ただ、きっぱりと遊びにいってるだけです。

当時、相方が、よく言ってました。
キリスト教には慈悲の精神があるけれども、なにも慈悲の精神でボランティアをやってるんじゃない。看護婦をやってきたんじゃない。そうではなくて、自分が必要とされる場所に身を置いて、それこそ、自分の働き如何で、誰かの生殺与奪を左右しかねないような、自分が強烈に必要とされる場所に身を置いていると、生きている実感を、これ以上ないくらいに感じることができる、と。
必要とされる場所に自分の身を置くことで、歓びを実感することができる。だから、私は、誰かのお世話をしているようでいて、じつは、その人たちによって生かされているんだ、と。
これは、キリスト教が掲げる慈悲の精神とも、仏教で観音菩薩が有している慈悲の心とも、景色が少し違うように思います。

僕も、長田のオバァやオジィたちのところに遊びにいくようになって、昨日のことのようではあるけれども、そのじつ、ずいぶんと長い時間が経って、ぼんやりとそのことがわかってきました。
自分が必要とされる場所にいるとき、引けば手繰り寄せられるようにそれを感じることのできる場所にいるとき、生かされているんだな、という感覚を、質量を伴った手応えとして持つことができます。

その相方も、10年前に、アフリカのニジェールという国へ看護婦のボランティアに行ったきり、戻ってきませんでした。
内戦で欠けてしまった人々の身体と心に、なにがしかを埋める作業をしに、彼女はニジェールに行ったのでした。
彼女が属していたボランティア団体は、災害地や紛争地にいち早く到着して、医療面からの適正なサポートを、政府や思想や社会体制によらずに、行なってきたところです。
そして、彼女が赴いた現場で、ゲリラ戦が起こりました。
そのゲリラ戦で亡くなったのは、数十人とも百人以上とも言われています。
今もって、正確な数字はわかっていません。




さて、これはずっとあとになって気がついたことなのですが、震災の最大の悲しみは、名前が残らないことです。

大量死の最大の悲劇は、亡くなった人の名前がない、ということです。
どこそこで、誰それが、これこれの理由で亡くなりました。享年○○才。
とは、いかない。
そうでなはなくて、震災のときは、こうでした。
○月○日現在、推定死亡者数○○人、まだ増える模様。
言うまでもないことだけれど、人にはそれぞれ固有の生があって、だからこそ、固有の死があるはずです。名前は、それを象徴しています。名前のある死があって初めて、つまり、弔いがあって、その人は、それまでの時間を生きて存在したことになります。
それが、ない。

いろんな人生があるけれども、どんなにしんどくても、そして最期がどれだけあっけない死であったとしても、誰かの許に知らされる死であったなら、そこには、固有の生があったことが確認されます。
死が記録され、人々の記憶のなかに残ってこその、生です。墓参りは、死んだ人のために行くのではなくて、生き残った者が、なにがしかの思いを抱えて、思いに突き動かされて、行くものです。

死が知らされない、ということは、一周忌も三回忌も七回忌も十三回忌も五十回忌もなく、なにもなく、思い出すきっかけもなく、やがて忘れ去られます。その人が生きたことそのものが、人々の記憶から忘れ去られます。いや、忘れ去られる以前に、知らされない。誰の心にも、痕跡を留めていない。

弔い、死を知らしめることによって初めて、その人の生が完結し、完結することによって、その人の生が、人々の記憶に残り、その人は、この世に生きたことになります。

それが、大量死を生む場所では、ない。
その人が、生きたことになっていない。
これ以上の悲劇は、ないです。
自分が生きたことが、誰にも認められない。想像したら、ぞっとします。
○月○日現在、推定死亡者数○○人、まだ増える模様。
ニュースでときどき耳にするフレーズだけど、死者に名前がないということは、そういうことなのですね。

幸いにして、僕は、相方の亡骸を確認し、僕の手許に取り戻すことができました。
彼女の死を無名の死にすることなく、名前のある、固有の死とすることができました。

震災のとき、相方がニジェールで亡くなったとき、その後、僕は、アメリカ軍によるイラクへの侵略戦争を取材しにいったのだけれども、そのときにね、やはり、無名の死ということを、つくづくと考えました。

相方を殺してしまった戦争というものの正体を少しでもいいから知りたいと思って、僕は、さまざまな手を使って、戦時下のイラクへ行きました。取材のかたちをとったのは、そうしなければ入国が叶わなかったからです。それとて、取材という、仕事の体裁を整えるのに、ずいぶんと苦労もしました。

そして、イラクにもまた、無名の死がたくさんありました。

あの戦争で亡くなったのは、イラク人だけではなく、アメリカ兵もです。
しかし、亡くなったアメリカ兵は、亡骸を回収され、それぞれが棺に納められ、星条旗に包まれ、家族の許に戻され、○月○日○時○分、○○にて彼は自由と民主主義のために勇敢に戦ったけれども機関銃の一斉掃射に遭い名誉の戦死を遂げた、と、固有の死を与えられます。彼や彼女の死を知らしめることで、彼や彼女の生が、たしかに生きたことが、そこで確認されます。
ほかならぬ、メディアが実名を挙げて報道しました。映画にすら、なりました。
一方で、イラク人はどうだったか。イラク兵やイラクの民や草の死を、メディアは、個別に実名で報道したのか? してないですね。

イラクとアメリカとでは、国力も戦力も圧倒的な開きがあるのは承知しているけれども、アメリカによって殺された人々のために費やされてきた言葉は、殺されたアメリカ人のために費やされてきたそれに比べ、情けなくなるほど少ない。
アメリカ人の誰かの死を悲しみ、憤り、生き残った人々を慈しみ、戦争や厄災そのものを憎しみとする言葉は、何万何億と紡がれてきました。でも、イラク兵やイラクの民草の死を悲しみ、慈しみ、憤ったりした言葉は、世界中で、どれほど紡がれたのか。
この彼我の差は、呆れるほど偏っていて、ほとんど、不当と呼んでいいほどです。
文学やジャーナリズムは、あまつさえほぼすべての表現は、人の死は平等だと説くのだけれども、嘘ですね。ここには、言説や表現の救いがたい非対称性が、あります。ほかならぬ、文学やジャーナリズムこそが、多くの表現こそが、人の死を平等に扱いません。国力や戦力の差というものは、とりもなおさず、人命の単価の相違、しかも、ケタ違いの価格差を生んでいるのだということに、文学やジャーナリズムは、表現は、牧歌的であり続けています。無意識の、無自覚の、無作為の、無知の罪、で、すませていいはずがない。

僕は、放った矢が自身に返ってくることを承知したうえで、なお、そう断言します。匕首を、自身の咽喉に突きつけながら、なお、そう断言します。




震災をきっかけとして、僕は、大量死というものについて、ずっと考えてきました。

あれから15年。
毎年、神戸の成人式では震災のことが語られ、1月17日が近づくにつれ、あちらこちらで追悼のイベントが開催されます。
あのときの体験を血とし肉とし、今も伝え続けている人が、たくさんいます。

それはきっと、亡くなっていった無名の死、固有の死を与えられなかった匿名の死に、名前を取り戻し、そうすることで固有の生を、その人がたしかにこの世に生きたのだという証を取り戻す作業なのだと、僕は思っています。
民や草だけではないです。神戸市や兵庫県は、行政府にしては珍しく、固有の物語を収集し、亡くなられた方々の名を残そうと取り組んでいます。ひとりも漏らさず、そうしようとしています。日頃、行政府に対しては文句しか言わない僕だけれども、このことについては、頭が下がります。

長田のオバァやオジィたちは、それこそ、櫛の歯が欠けるように、ひとり、ひとり、と、亡くなっていくのだけれども、この人たちの死を無名のものにしてはいけないなあ、と、この時期、毎年思います。
長田には復興住宅がまだあって、そこから抜け出すことなどどう逆立ちしても不可能な生活を送るしかない境遇のオジィやオバァがまだまだたくさんいて、その人たちは僕の大切な友人でもあって、僕は彼ら彼女らに生かされているという思いもあって、思いはさまざまに交錯していきます。

ミカンを持っていけば、どこから仕入れたのか知らないけれども、帰りにメロンを持たせてくれるような塩梅で、ほんと、なにしに行ってるのかわからん始末ですが、そういうオバァやオジィたちに、まちがいなく、僕は、生かされています。そういう場所にいることに、僕は、まちがいなく、歓びを見いだせる人間です。

亡くなったオバァもオジィも、生き残ったオバァもオジィも、皆、たくましいですね。 
「死んだら全部終わりやな」 
と僕が言ったら、 
「死んで全部終わってくれんことには、借金がなくならんやんかぁ!」 
などと返してきます(笑) 
あの人たちは、たくましいです。 
どんだけ悲惨な状況に陥っても、その状況のなかでなんとかかんとか楽しむ術というか、図太さみたいなものを、持ってます。 

沖縄の本島の出のオバァが島の出のオバァをケチョンケチョンにけなし、済州島の出のオバァと半島の北の出のオバァはお互いがお互いをなじりあってます。クサいだとかキタナいだとか(笑)
差別と嫉妬が大好きで、無知で無教養で、粗野で卑近で、どうしようもないオバァたちだけれども、生命力は旺盛で、数知れずあっただろういわれなき難事をかつがつしのいできた、生きることに天賦の才を持っているとしか思えんようなオバァたちです。そんなオバァたちだけれども、多くは、孤独のうちに亡くなっていきます。
その現場に接すると、辛いだとか悲しいだとかいう以前に、口を噤んでしまいます。


そんなことをしょっちゅう考えているわけではないけれども、この時期はね、どうしても、そういうことを思います。


あのとき、神戸で出会ったりすれ違った人たちのことやら、相方のことやら、我が家で団体生活を送った外国人たちのことやら、イラクのことやら、長田のオバァやオジィたちのことやら…、いろんなことを、思い出しますね。

もう、15年かぁ。

15年という時間は、けして短い時間ではなく、それぞれがそれぞれの固有の生を歩き続けているのだとしても、この時期だけはね、神戸の人たちは皆、おなじようなことを思うんだろうなあ。

人というのは、つくづく、ひとりでは生きていないもんですね。


今日また、神戸中にろうそくの灯がともります。
僕の誕生日はね、今では、神戸中で、ろうそくの火が灯る日となっているのですよ(笑)


ご存知の方は多いと思いますが、ソウルフラワー・ユニオンは、震災を機に、タフなバンドになりました。震災を経験して、『満月の夕』が生まれて、彼らは活動の形態を大きく変え、理念先行の頭でっかちなところがなくなって、いい意味で、肉体派、感情派のバンドになりました。
デビュー前から知ってるけど、がむしゃらにわめくだけの青臭いパンクバンドが、ソウルを獲得して、いいかんじの酔っぱらいバンドになりましたわ。
酔っぱらいの美学は停滞と堕落にあると思うのだけれども、彼らは、ヨイヨイになりながらも、なお、音楽や歌を次の段階に押し上げようと、前進をやめません。
ヨイヨイになりながらもそんな芸当が似合うのはゲンズブールとソウルフラワーくらいしか思いつかないけれども、ゲンズブールは孤高のバガボンドだったのにたいして、ソウルフラワーには全員を飲み友だちにしてしまうような明朗さがあって、僕は好きです。

若いころは、オレら特別でっせ!ヘンタイでっせ!というような露悪趣味があったけれども、そしてその尖った気高き孤高も好きではあったけれども、今の彼らは、これしかできまへんねん、いっつもこんなんですねん、こんなんですんまへん!という気取りのない立ち位置にいます。
異形であり続けることに、衒いや気負いがなくなりました。虎キチだということも、ポイント高し。

エレキギターを三線に持ち替え、オルガンをアコーディオンに持ち替え、ドラムをチンドンに持ち替え、電気が復旧していなかったころから、長田の公園で、オジィやオバァを励ますために、流行歌の演奏会を、何度も何度もやってました。
そうやって、聴く者すべてを飲み友だちにして、一緒に泣いて笑って、酔っぱらおうや、生きていこうや!って、仲間の輪をひろげていきました。
彼らのいいところは、理念なんかよりも先に、具体的なアクションを起こしてるとこ。

音楽というのは、パンにも塩にもならないけれども、人の、手と手を繋ぎますね。そうやって、どれほどの人の心の、欠けてしまったなにかを埋めてきたことか。そうすることで、彼らこそが、どれほどの元気をもらってきたことか。

今日は終日、神戸でワイワイやってます☆
永田のマツリゴトは相も変わらずつまらんけれども、長田のマツリは、泣きも笑いもあって、とっても楽しい。

今年も、多くの人の口の端から天空に向けて、『満月の夕』が放たれますように。

この歌のおかげで、僕は、震災のあった1995年の1月17日の夜が満月だったのだということを、知りました。あのとき、空を見上げている余裕なんてまったくなかったけれども、でも、空にはすでに、あわあわとした希望が、用意されていたのでした。


今年も、多くの人の口の端から天空に向けて、『満月の夕』が放たれますように。


2010/01/16

鶴野町のお掃除オバちゃん


昨年から北区にあるあっちゃこっちゃの町会や商店会とお付き合いしてるんですが、そんななか、鶴野町のとある自治会長さんと知り合いになりました。60歳前後のオバちゃんです。

お話を聞くと、毎週月・水・金の夜、自治会の活動として、有志6人くらいが集まって、お住まいのマンションの周辺を掃除している、と。
周辺といっても、そこはマンションの私有地でもなんでもなくて、公道です。新御堂筋も入ってます。秋には、イチョウの葉がびっしりと路面を覆ってしまう、あの新御堂筋を、夜、ホウキで掃いてはるんやそうです。
月1回とかじゃないですよ。週3回。ほぼ、1日おき。

酔っぱらいもいれば、傍若無人な若者も歩いてるし、歩道のすぐ横は車ももちろん走ってます。
家の用事もあるでしょうし、ただでさえ地域の会の役をされているのだから、忙しいに決まってます。
そういう人たちが、週3回も、掃除してくれてはります。

街の美化に、ひと役買ってくれ、縁の下の力持ちをやってくれてはります。

このブログでもときどき紹介してますが、地の人とお付き合いするようになって、防犯やら老人福祉やら街の安全やらに、ボランティアで取り組んでおられる人がたーくさんいることを、知りました。

そのおかげで、視点が一個増えたような気もします。

たとえば、梅田北ヤードの2期構想に、サッカースタジアム建設構想が持ち上がったとき、そんなんつくらんでええ、セントラルパークのような公園をつくるほうがよっぽど意義がある、といった、良識派チックな意見をたくさん耳にしたのですが(僕自身も、それは素敵な案やと思っています)、地の人たちは、少し違う考えを持っておられることを、お付き合いのなかで知らされました。

国やら府、市に予算つけてもらって、デベロッパーにも金を出してもらって公園をつくったとして、維持管理はどうしますねん、と。
どんな事業であってもキックオフには予算がつくけれども、維持管理については、税金からの予算は原則つきません。デベロッパーは青息吐息なので、キックオフのような一時的な出費は見ても、恒常的なものにはお金を出しません。

でも、公園をつくったとして、誰も維持管理をしないと…、
ホームレスが根城にします。
樹々が枯れます。
花は誰かが維持管理しないと、すぐに枯れます。
樹々が茂ったとして、枯葉がそこらじゅうに舞い散ります。
夏になると、セミがわんさとやってきます。カラスも来ます。鳩も来ます。鳩が来れば、糞の処理問題が発生します。
その他諸々、ヤマのように問題が発生し、都市のど真ん中に公園という素敵な案も、絵に描いた餅になります。

もしくは、地元の人が、ボランティアで働くしかなくなります。
でも、北ヤードに現在住民票を置いている人はおらず、これから住民が生まれる地域です。昨日今日やって来た人たちが、その土地に愛着を持って、ボランティアで美化や防犯に取り組んでくれるかどうかは、わかりません。

政治主導でも自然発生的なものでも、街に新たな色がつけられ、その現象を、メディアがこぞってとりあげます。
レトロな趣を残した○○は今、若い人がたくさん集まってお洒落な雑貨屋さんやらヘアサロンやらが…、といったおなじみの語りを目にしたり耳にしたりすることはしょっちゅうですが、その現象を支えているのは、地の人たちの、土地への無償の愛情だということは、もちょっと知られてもいいことだと思います。


こないだ、鶴野町のとある自治会長さんに、掃除に参加してくれる人を募集するポスターを掲示板に貼りたいので、つくってくれへんか?と請われて、つくりますつくりますつくります!ロハでつくらせていただきます~、と相成り、つくったのでした。

僕の大好きな讃岐うどんのお店があるマンションの玄関ロビーにある掲示板に、ポスターが貼ってあると思います。




鶴野町のお掃除オバちゃん