2012/11/30

ひとりひとりの物語を

ひとりひとりの物語を
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ソウルフラワー・ユニオンの中川クンが、アコースティック・ソロ・アルバムの第2弾「銀河のほとり、路上の花」が届いた。
もはや、いいとか悪いとかを論じられるようなアルバムではなく、中川クンの日常がそのまんま詰まったような、近況報告のようなアルバムだ。

トレーラーがYouTubeにアップされている。




もっとも、中川クンの近況報告といえば、東日本大震災の復興支援や反原発のデモに集約される。
セルフカバーを含めて、海をテーマにした曲が多いのも、そんなところに由来しているのだろう。

最近、震災や原発のメルトダウンについて書かれたものを見るたび、数字にどれほどの意味があるのだろうか、と、考えるようになった。
たとえば、福島第一原子力発電所1~3号機から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の168個分に相当する、と言われても、これらのテキストからは、なにかとんでもないことが起きているような気にさせはするけれども、そのじつ、なにひとつ光景が立ち上がってこないのだ。
数値と人間とのあいだにある絶望的な真空を埋める生きた言葉が、そこにはないからだ。

戦争であれ災害であれ虐殺であれ、大量死が起こったとき、メディアはしばしば、そのような計量的な思考をするけれども、突き詰めてみれば、そのような思考は、人の魂をこれっぽっちも救いはしていないと、僕は思う。

大量死の恐ろしさは、いちどきに大量の人間が死ぬことにあるのではないと、僕は、自身の経験に照らして、何度も言ってきた。そのなかに、それぞれに名付けられた、固有の、ひとりひとりの死が、ないこと。そのことこそが、絶望的に恐ろしいことなのだと、僕はずっと言ってきた。
死において、それがただただ数であるとき、それは絶望そのものだ。人は、死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならない。それこそが、その人が、この世に生きた証なのだから。

中川クンのこのアルバムを聴いているとき、ひとりひとりの人間の顔が立ち上がってきた。
津波を引き起こした海だけど、それでも私は海が好きだと言った人がいた。
街頭からトキの声を上げる気高い人がいた。
涙が流れるまま、胸の痛みが止まらないまま、網膜に影を焼き付けた人がいた。
証言台に立つ人がいた。
不安に足がすくみながらも、声を上げる人がいた。
恵みの海で祈り、弔い酒を贈り、再び船を出す人がいた。
久しぶりの顔が揃うなか、泣き顔に笑みが溶ける人がいた。
勇ましい言葉だけで何度も間違え、何度も打ち沈む人がいた。

ちゃんと、顔が見えるのだ。
中川クンが、3.11以降、いや、3.11以前からの仲間たちすらも囲い入れて、彼のこのアルバムからは、生身の人間の、固有の名前を持った人間の、顔が見える。
別れがあり、怒りがあり、哀れみがあり、泣きも笑いもあり、すべては受け入れられ、世界はお前を待っていると言い、再生の物語へと収斂されていく。

そういうアルバムだ。

そういえば、中川クンのアルバムには、ソウルフラワーのアルバムも含めて、ジャケットのクレジットの欄に、「それぞれの現場で闘っている人たちに捧げる」といった一文が添えられていた。
今回のアルバムには、「被災地やデモの現場で出会った不屈の仲間たちに乾杯! このアルバムを世界中の抵抗者たちと子どもたちに捧げる!」と添えられていた。

明日は、僕たちの、Think Of JAPAN While Knittingの新作お披露目&販売会が、中津芸術文化村ピエロハーバーで開催される日。
このプロジェクトもまた、モチーフを編んでくれた人、繋いでくれた人、伝えてくれた人、お買い上げいただいた人たちの、無数の、でも、ひとりひとりの、たくさんの物語を大切にしている。それらの物語が有機的に繋がっていくことを、とても大切にしている。

最後の担い手は、お買い上げいただくあなたなのだけれども、それはなにも、お買い上げいただいた15,000円や20,000円といったおカネが寄付され、被災地の震災遺児の支援のために使われるということだけではない。
このプロジェクトに集まった、彼や彼女たちの想い、泣き、笑い、救い、そんな物語の渦のなかに、あなたも加わってくれる、ということだ。

被災地で、なぜ、中川クンの歌がかくも必要とされているのか。
それは、音楽を言いわけにして、その場にいる人たちが感情を解き放つことができるからだ。
被災したのは自分だけではない、頑張らなければならない…、そうやって自制を重ねてきた人たちが、音楽を言いわけにして、思いっきり泣いたり、思いっきり笑ったりし、閉じた感情を解き放ち、心を覆った澱を吹き飛ばすことができるからだ。音楽のせいにすることで、その人は、重しを、いっとき、背中から地面へと置くことができるからだ。

僕たちのTJWKにも、そのような物語がたくさんあるし、また、そうでありたいと、ずっと思っているし、なによりも僕自身が、TJWKによって、そのような軽やかな心持ちを持つことができています。

明日、会いましょう!

Think OF JAPAN While Knitting 関西
http://atricot.jp/tjwk/

2012/10/20

谷澤紗和子「ミンハメグリ」@中之島図書館

水都大阪のプログラムの一環で開催されている、谷澤紗和子さんの「ミンハメグリ」を見に、中之島図書館へ行ってきた。
大阪の民話をモチーフにし、そこから抽出した像を繋ぎあわせ、切り絵とその影が織りなす表現が展開されている。
古色蒼然としたこの建物と柔らかい光と影がつくり出す空間はなんとも幻想的で、ちょっと現実離れした空間になってます。
切り絵されている和紙がわずかな空気の揺れに反応し、影がその揺れにさらに反応し、少しずつかたちを変えます。
光が柔らかなせいで、影はよくよく見ると境界を曖昧にさせていて、傷んだ8mmフィルムが投射する映像を見ているような、そんな妖しさがありますね。そう、妖しいです、ここは。
ベースとなった大阪の民話を探るよりも、ここから新たに生まれてくる物語に迷い込んでいきそうな…、柔らかい闇と光でありながらも、ドロッとした濃密ななにかがある空間。糖衣に包まれた毒、だな。つまり、芸術。

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ

ミンハメグリ


それにしても、中之島図書館は趣があっていい建物ですね。
ここを商売の場所に使おうなんてことを考えるってなー。破廉恥すぎる行為やと思いますけどね。

ミンハメグリ


このフォントもよろし。

ミンハメグリ


谷澤紗和子「ミンハメグリ」
日時:10/13(土)~10/27(土)9:00-20:00 ※土曜日のみ17:00まで
場所:中之島図書館
無料。
http://www.osaka-info.jp/suito2012/event/S_oosaka-canvas.html

2012/04/15

イースタンユースのアルバム「旅路ニ季節ガ燃エ落チル」のジャケットには、佐伯祐三の「立てる自画像」が使われている


イースタンユースのアルバム「旅路ニ季節ガ燃エ落チル」のジャケットには、佐伯祐三の「立てる自画像」が使用されていて、それまで佐伯祐三のことをそれほど知らなかった僕は、その絵を見て、震えを覚えたのでした。

暗くどんよりとした空と裏ぶれた小道に立つ佐伯祐三は、顔がくすめるように塗りつぶされ、暗く、晦渋で、それでいて奔馬のごとき荒ぶる感情を有しているかのような、さまざまな相反する感情がそのまま織り込まれている、まさに青春としかいいようのない匂いを、その絵は放っていたのでした。

本当は愛し、愛されたいのにもかかわらず、そのまえにあらゆるところにノン!を突きつけなければ一歩も前に進めない…、そんな、ロックンロールが本質的に持っている二律背反の感情は、イースタンユースのアルバムにもしっかりと貫かれていて、楽曲とアートワークが拮抗した素晴らしいアルバムだと、今でも思っています。

ロックンロールの本質は、単なる反抗ではなく、この、「本当は愛し、愛されたいのにもかかわらず、そのまえにあらゆるところにノン!を突きつけなければ一歩も前に進めない…」という、ややこしい心の持ちようだと、僕は思っています。
イースタンユースはまさにそういう音を鳴らしているバンドで、彼らがアルバムのアートワークに佐伯祐三の「立てる自画像」を採用したのは、きっと、共鳴したからなんでしょうな。

1898年(明治31年)、光徳寺の13代目住職の家に、4男3女の次男として生まれる。
絵の才能に恵まれ、画塾に通うようになり、東京美術学校西洋画予備科に入学。
25歳で、フランスに渡ります。
この頃は、まだ印象派の画家を模倣している段階で、まだ佐伯独自のスタイルはなく、むしろルノワールやセザンヌを模倣してるかんじ。
ただ、フランス滞在中に、有名なエピソードである、フォーヴィズムの画家ヴラマンクとの出会いがありますな。
佐伯祐三の作品を見たヴラマンクは、「アカデミック!」という怒声を皮切りに、1時間半、佐伯祐三に罵声を浴び続けた、というエピソード。
マニュアルに染まり切った佐伯祐三の絵が、ヴラマンクには許せんかった、ということです。

ひどく自尊心を傷つけられた佐伯祐三は、今までの作品をすべてご破算にし、自分だけのスタイルを模索するため新たなスタートを切ろうとします。その頃に描いたのが、「立てる自画像」。
顔が塗りつぶされているのは、きっと、今までの自分を消し去って新たな自分を探そう!という、彼なりの決意表明やと思うんですね。

この後、佐伯祐三の絵は、ブルーとセピアを基調とした、暗い、晦渋な、奔放なスタイルになっていきます。
グランジ的で、キタノ・ブルー的な印象。この頃の作品は、僕、どれも好きですね。



その佐伯祐三が大阪生まれということは知っていたんですが、中津に生まれていたとは知りませんでした。
中津の富島神社の隣の光徳寺に生まれたそうで、それならば、と思い立って、チャリを飛ばしたのでした。

行ってみたら、正門のところには、「宗教法人光徳寺」「社会福祉法人光徳寺善隣館中津学園」の札がかかっていて、その下に「佐伯」の表札があり、そのおかげで、ここが佐伯家なのだということがわかりました。




お寺さんが幼稚園や学校を経営するのはよくある話ですが、佐伯祐三の生家としてアピールしている様子は皆無で、これはもう、知らんかったら全然気がつきません。

お寺さん自体は本願寺の末寺として1580年(天正2年)開山の由緒あるお寺やそうです。
佐伯祐三が育った時代は1万坪の寺域を誇ったとのことですが、第2次大戦の戦災で焼失、戦後、現在の地に中津学園が新設されて、現在に至ってます。

なかに入れてもらうと、石碑がありました。




ずいぶんとひっそりとしていて、華美装飾を排したこの扱いは、なんとなく、ロケンローラー・佐伯祐三に相応しいような気もするのでした。
こんとき、iPodには、久しぶりにイースタンユースを入れて、ずーっと聴いていたのでした。








佐伯祐三生誕の地
光徳寺
大阪市北区中津2-5-4

2012/02/12

徳兵衛って誰?



ちょっとしたビルの屋上にはお稲荷さんが祀られているのが定番ですが、大阪駅前第2ビルのは、外からもその存在を確認できるので、いつもチラチラと見ては、気になっていました。
屋上じゃなくて、3階部分の庭というか屋外パーキングになっているところに祀られているので、道を歩いていて、視界に入ってくるんですね。


気になっていたので、これは行ってみるしかないじゃないですか~。

ビルの中に入ると、案内というか誘導サインが壁に貼られています。こんなふうに、訪れる人を歓迎してくれる祠は、近頃ではめっきり減りました。屋上に部外者を上げることのリスク回避が優先されるんですが、そんななか、こちらは、誰でもオッケーの、フリーでオープンな神さんです。




それにしても、○○稲荷だとてっきり思っていたのですが、そうではなくて、徳兵衛大明神というのですな。。。

大明神とお稲荷さんはどちらも農耕、豊曉の神さんが転じて商売の神さんとして祀られているので、そこはいいのですが、徳兵衛って誰?

短い縁起があったので、全文記しておきます。




住昔、大阪曽根崎蜆川のほとりに長く荒れたる祠あり
常夜燈の影ほの暗く参拝者の姿も杜絶がちなりしをいつのほどにか徳兵衛と云えるひとの移り住みて荒れたるを修し修行怠りなく合掌三昧に年ふるうち霊験しきりに起り参詣者引きもきらず世人その徳を慕いて徳兵衛大明神と尊称堂宇日に盛んなりしも其後星移り物変ると共に湮滅に帰したるを近頃有志相因りて祠を再興し世の尊信を受けつつあり口碑に曰く
徳兵衛もと河内の人性来信心厚く徳を磨き常に慈悲善根をしてその情蓄類にまで及びたり



要するに、まだ曽根崎に蜆川があったころ、廃れていた小さな祠が川のほとりにあって、そこに、河内出身の徳兵衛という人が住みついて、修業していた、と。つまり徳兵衛さんは、修験僧や私度僧といった、在野の僧ですな。その徳兵衛さん、熱心に合掌していたところ、数々の奇跡、つまり、病気を治したり天候を意のままに操ったりということでしょうが、そういう奇跡を起こして評判を得た、と。

その祠も、徳兵衛さんの死後、再度廃れたようなのですが、駅前第2ビルを建てるとき、有志の方々が再復興させたのが、現在の姿やそうです。縁起の碑文も、奉賛会有志となってました。

このあたりで徳兵衛さんといえば、真っ先に、曾根崎心中の徳兵衛さんを思い浮かべますが、どうやら別人みたい。



ところで、この神社はロケーションが大層よろしくて、バックにマルビルやヒルトンホテルをしたがえ、なかなか壮観です☆









徳兵衛大明神
大阪市北区梅田1-2-2 大阪駅前第2ビル 3F

2012/02/11

まっすぐな男・平八郎さんの足跡を訪ねる vol.1 - 名与力として活躍する編


平八郎さんこと大塩平八郎は教科書で習った大塩平八郎の乱の首謀者にして名与力、高名な陽明学者でもあり、江戸時代に北区を舞台に活躍した人です。

なので、このブログでも取り上げないとな~、と、ずっと思っていて、つらつらと合間を見て調べてたんですが、このおじさん、なかなかタフなおじさんでした(笑) というか、今やってるドラマ「まっすぐな男」そのものですわ。見てないけど(笑)

書くこといっぱいあるんで、4~5回くらいにわけてエントリーします。

1793年(寛政5年)、大塩家の八代目として、初代からの屋敷であった天満で生まれてはります。もろ、北区民☆

今、造幣局の官舎内に「洗心洞」の跡碑が建っていて、そこが屋敷跡です。洗心洞については後述するとして、この地の町名は今も「天満」ですから、もう、生粋の天満人ですな。

大塩家は、初代から代々、大坂町奉行所付きの与力の職を継承していて、禄高200石。これは悪い待遇ではなかったらしいです。禄高200石といっても、今の値打ちでどれほどのもんかわからんので実感がないんですが、悪くない待遇やったらしいですよ。

7歳のときに両親と死別し、その後、おじいさんとおじいさんの後妻に養育されます。不正を許せない実直な性格が後年いろいろとやらかすことになるんですが、その気質は、しつけに厳しかった継祖母の影響を強く受けている、と。このあたり、三つ子の魂百までというか、かーなり、徹底的に叩き込まれたみたいですわ。

14歳で早くも与力見習いとして出仕し、その後、25歳で正式に祖父の跡を継いで寄り気になります。
与力というのは、今の警察機構でいうところの中堅幹部みたいなもんで、奉行が警察署長やとしたら、その直下のセクションで、配下の同心を指揮して捜査にあたる捜査本部長みたいなもんですな。
25歳で捜査本部長ですから、今やと、中央官庁から派遣されてきたバリバリのキャリア組ということになるけれども、この時代、大阪は大阪だけでまわってたんで、実質的には地方公務員的存在であるには違いない、と。

同心、与力と、北区には今でもそういう町名がありますが、これはつまり、同心たちの住んでいたエリア、与力たちの住んでいたエリアと、エリア分けされていたころの名残で、同心と与力は上司と部下の関係なので、隣同士のエリアに配置されていたことが、今の町名を見てもわかりますわ。

もっとも、現存する与力宅は、今、造幣局の官舎のエリア内にあって、現在のそこの町名は天満ですから、当時は、そのあたりまで与力町やったんでしょうな。

与力宅は武家屋敷風の建物で、現存しているのは、江戸時代の東町奉行所配下の天満与力の中島家の役宅門で、当時、この付近一帯は、天満与力の役宅が軒を並べていたらしいです。今もむかしも、官舎のエリアってことですな。
で、これが唯一の現存する建物で、しかも、門構えだけ。
1948年(昭和23年)に茶室として増改築されたものの、老朽化が激しいので、2000年(平成12年)に改築されてます。
当時の与力は500坪、同心は200坪野や敷地を賜ってます。広いっ!






どの与力宅も似たようなもんなので、大塩平八郎さんも、こんなかんじのところに住んでたんでしょうな。これ見て、往時を偲んでました。


さて、平八郎さんは、与力に就くやいなや、人物優秀やったんでしょうな、翌年には吟味役(裁判官)に昇進します。吟味約は、与力職のなかでも上級職ですわ。そこで、裁定に鋭い手腕を発揮した、と言われております。

平八郎さんは20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神であるところの、「よいと知りながら実行しなければ、本当の知識ではない」を、実践していくわけですね。
そんな平八郎さんが吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたこと。ある日、彼が担当した事件で当事者から菓子折りが届き、開けてみると、中身は小判。カネのお菓子は、今でこそ時代劇の悪代官が登場するシーンでよく見かけるけれども、この時代の出来事をモデルにして、このシーンはテレビドラマで定着していったのですね。
もちろん、賄賂がアリだから、捜査に手心を加えることも、半ば公然と行なわれていて、つまるところ、奉行所は腐りきっていたわけです。

で、ここで幼少のころから叩き込まれた不正を許さない性格が頭をもたげ、内部告発のための証拠を集めに奔走するわけです。保身、一切なしの真っ直ぐな男☆

証拠集めの結果、わかったことは、弓削というとんでもない与力が西町奉行所にいることを知ります。
弓削クンは、裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党ですわ。

大平八郎さんは弓削クンと徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削クンのシンジケートを壊滅させるんです。
結果、弓削クンは自害し、平八郎さんは3千両を没収します。この3千両は、今なら国庫に納まりますが、時代は江戸時代、大岡裁きが許されていたんでしょうな、貧民への施し金となったわけです。あたりまえですが、これ一発で、平八郎さんは庶民のスターになります。

ところが事件はこれで収まらず、「24」的な悪党の後ろにはさらに大悪党が控えている、というのを地でいくような展開となります。世にいう大塩平八郎の乱なんて、まだ先の話でっせ!

捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠が出てきたんですわ。
もちろん、余計なことすんな!大人しくしときんしゃい!と、相手は幕府中枢ですから、圧力がかかるわけです。
でも、そんなことで怯む平八郎さんではありません!身の危険を感じて同棲中の彼女を親戚の家に匿ってもらい、彼自身は、腹をくくって巨悪に立ち向っていくのでした…。

そっから先、八面六臂の大活躍で、1830年(天保元年)、平八郎さん37歳のときですが、起訴までこぎ着けましてん。小沢一郎と検察の対決で、ここまでは検察が勝った!みたいな話ですわ。

ところがですわ、起訴はしたものの、奉行所の裁定は、平八郎さんを深く失望させる内容だったのでした。
幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になっただけで、この事件は幕が下ろされました。今でいうところの、形式犯的な罰金20万円くらいの、軽~い処分ですわ。
そして、その処分の1ヵ月後、平八郎さんを陰ながら応援してくれていた上司が辞任。お上に楯ついた代償は大きかった、ということです。
これに連座するかたちで、名与力として人望を集めていた平八郎さんも職を養子の格之助に譲って、奉行所を去ります。こうして、平八郎さんの25年にわたる奉行所生活が終わったわけです。平八郎さん、40歳のときです。

大塩平八郎の乱は、こっから先の出来事ですが、まずは前半生を。
この次は、まっすぐな男・平八郎さんに大きな影響を与えた陽明学の話を。






東町奉行所配下天満与力、中島家役宅門
大阪市北区天満1-25 造幣局官舎北2号館南